カテゴリー「古代日本史」の16件の記事

2018-11-16

3度目の国立歴史民俗博物館

去る11月4日、(たぶん)3度目になる国立歴史民俗博物館を訪れた。

所在するのは千葉県佐倉市、成田の手前にあたるところで、板橋からはクルマで下道を通ってちょうど2時間ということろ。環七から水戸街道に入り、松戸からさらに分岐して鎌ケ谷方面に向かう。鎌ケ谷からはほぼ北総鉄道の線路沿いに整備された、途中からはまるで高速道路のような道を辿っていく。

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小高い丘陵地帯に歴博はある。

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館内は広い。縄文時代から現代までそれぞれのゾーンに分けて展示されているが、現在縄文から古代(奈良時代まで)はリニューアル中ということで、中世(平安から)からの展示となる。

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学術的な展示ばかりでなく、生活や一般庶民の民俗にいたるまで展示しているところがよい。

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特にジオラマは圧巻だ。

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平安京の人々の暮らし。

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農家の暮らし。

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日本橋界隈。

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そして館内のレストランで古代米おむすびセットをいただく。

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デザートはクリームみつまめ。

来年3月中旬にリニューアルが完了するそうなので、古代をあらためて見に来たい。

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2018-07-19

『日本書紀』を読む(6)持統天皇と高天原誕生の謎

見附市学びの駅ふぁみりあでシリーズ開催されている「古代日本史講座」。
17期の『日本書紀』成立1300年!その謎を解くシリーズ。今回はその第8回「『日本書紀』を読む(6)持統天皇と高天原誕生の謎『高天原とは、物部(高原)と中臣(天)を合わせた政治的造語だった。』」と題して、持統天皇と「高天原」の謎に迫ります。
※以下「私」と記述している部分は関根先生のことを指しています。

■プロローグ:古代史研究ということについて

今回のテーマである持統天皇を述べるにあたって、私の古代史研究の立場と視点を明確にしておきたい。

「歴史」とは、人間世界の時間経過であり、その記述である。一言でいえば、書かれた過去。

誰かが書いて残さなければ歴史にはならない。
そして、研究においては、書かれた過去の内容を確認、批判、検証し、自らの立場と視点から書き換えることであると言える。

私が現在メインの研究テーマとしている8世紀前後における基本文献としては『古事記』、『日本書紀』、『続日本紀』(あとは『萬葉集』)が存在する。

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『古事記』(712)
  →年時のない古代~近代史。本音で歴史的事実を造語で記述している。
『日本書記』(720)
  →年時のある古代~現代史。事実の記録と共に、政治的作り話が多い。
『続日本紀』(797)とは?
  →年時のある現代史。多くは事実の記録だが、政治的な記述操作が目立つ。
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今期のテーマは『日本書紀』を取り上げてきた。

■持統天皇

一般的な持統天皇のイメージを確認するために、NHKで放映された「歴史ヒストリア」で持統天皇が取り上げられた回の録画を編集したものを見ていただきたい。

(10分程度の録画を視聴)

番組では古代日本を作り上げた人というふうに紹介されている。(私の立場は少し異なる)
番組中で取り上げられていたように藤原京を始め、国府の所在地を中心に全国いたるところに12mや20mの道路を建設したと思われる。

『萬葉集』を見ると道を表す言葉として「美知」という字で表現されていることがわかる。「知」という言葉は、漢字海によると、一般的な「知識を得る」の他に「しらせる」という意味がある。「美」は女帝のことを表していると考えられる。つまり、女帝の威光を知らしめる、という意味で「みち」という言葉が使われ始めたのではないかと想像する。

このような権力を発揮するためには官僚制度がしっかりしていないといけないと思うが、持統天皇の頃の官僚制度ははっきりしないところがある。後の石上政権くらいになると、国司の任命表のようにかなりしっかりとした姿が見えるようになるのだが、持統天皇の時期についてはそこまでしっかりしたものが出来ていなかったと考えられる。

それと番組内で持統天皇の頃は遣唐使の行き来がなかったので、唐の情報が入って来なかったと解説されている。そのために当時の長安のような都の作り方ではなく、古い中国の書に載っているように、都の真ん中に宮殿を置く形になったという。
しかし、例えば『日本書紀』の執筆に大きくかかわっていると考えられる續守言と薩弘恪など、捕虜などの形で多くの唐人が日本に来ている事実がある。それらの人々から情報は入るはずだ。
持統天皇の頃、中国は則天武后による睡簾政治から武則天による周の建国の時期だったが、武則天の行っていた制度はかなり日本に入ってきていると思える。官僚制度そのものが武則天が活用した制度であり、遣唐使とは別の形として日本に入ってきたと考えると理解しやすい。

武則天と持統天皇の共通項をまとめてみた。
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武則天と持統の共通項

在位期間
  →武則天(690-705)
  →持統天皇(690-697)
  ※文武天皇に譲位後も崩御(702)まで為政に関わった。

火葬
  →武則天(624-705)
  →持統天皇(645-702)
  ※文武王(626-681)新羅で初めて火葬された王。
  ※道照(629-700)遺命により日本で初めて火葬に付された。
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火葬という風習がちゃんと日本に伝わってきていることは興味深い。

そんな持統天皇だが、和風諡号(送り名)は「高天原廣野姫」(たかあまはらひろのひめ)という。本日のメインのテーマとしてこの「高天原」について論考してみたい。

■「高天原」の真実

【資料1】資料紹介 武光誠『古事記・日本書紀を知る事典』(東京堂出版1999)
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この本の著者である武光誠さんは最近多くの本を出されていて、読みやすい内容が多い。「高天原」についての部分を資料に引用したが、私の主張とは異なるが、このような見方があるというのは事実だと思う。

ポイントは2つあり、まず、「高天原」という言葉は古事記の時代に改めて作られた言葉であるという視点が述べられており、私も同意する。
2つめが、空を表す「天原」に「すぐれて尊いありさまを表す「高」を付けたのが「高天原」であり、そこに古事記や日本書紀に登場する神々が住んでいたということである。少なくとも『古事記』も『日本書紀』もそういうとらえかたができるような書き方になっていることは事実である。しかし、そのような表面的な書き方の裏に何があるのかという視点も必要であると思う。

それでは具体的に『古事記』『日本書紀』などで「天原」「高天原」がどのように使われているのかを古代史ビューア【麻呂】で見てゆきたい。

まずは『萬葉集』を「天原」で検索すると12件の該当箇所がある。見ていくといずれも空のことを表しているようだ。

続いて『続日本紀』。こちらは10件が該当する。検索して確認していくといずれも「高天原」の一部として使われている部分である。漢文で書いた国史の中では「天原」という使われ方はされていないということになると、「天原」という言葉は日本語の感覚で使われていたのかもしれない。

それでは『日本書紀』を見てみよう。全部で11件登場するが、神代記の10件の後は1件だけ、途中登場しないが最後の持統天皇の部分で和風諡号として登場する、
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これは不自然と感じる。
また、『日本書紀』では「高天原」でなく「天原」単独で使われている箇所が4か所見られる。これらの使われ方を見ると、本来は「高天原」と表記されてもいいところを「天原」として表記していると思われる。これは故意か過失かわからないが、「天原」という使い方があったものをある時期に「高天原」に変えたからではないかと思う。その「ある時期」とは持統天皇に「高天原廣野姫」という名前を付けた時であると私は考える。

【資料2】根本的な誤読から生まれた様々な高天原諸説
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この資料で紹介しているのは安本美典氏が高天原をテーマにまとめた貴重な研究書。安本氏の手法は様々な文献を集めて整理するというものであり、この本も「高天原」に関する様々な理論説を紹介し、分析し論及している。
先ほども述べたように「天原」は空を表すととらえる考えがあり、それを天上説としている。また、地上のどこかに存在したと考える地上説があり、国内から海外にまで論考は広がっている。

しかし、私の主張はまったくこれらに属さない。
石上麻呂と藤原不比等という、『古事記』や『日本書紀』が作られた時代。言葉というのは必ず歴史的な背景を持っているというのが私の主張。なぜかというと歴史は書かれたものであり、書いた時期の書いた人の立場に歴史的背景、社会的背景が反映するものだと思う。
「高天原」という言葉もそうである。石上麻呂を表す「物部」、藤原不比等を表す「中臣」を併せた言葉と考えられる。したがって、該当する地域を探しても意味がない。
物語としては天上に神様がいたという風な書き方をしているが、その裏に隠されているのはその時期の為政者たちの思惑を言葉に反映したものである。抽象的な物語の裏に、時代時代の具体的なお話が隠れている、という風に私はとらえている。

安本氏は、これだけの論考を整理しているのだから、『古事記』『日本書紀』の記述についても論及すべきだと考える。

「高天原」については、私が『古事記』をやりはじめて一番初めに引っかかった問題。
ここにある岩波文庫版の『古事記』は訓読、訳文、原文が載っており、非常に研究に取り組みやすい構成になっている。しかし、土台が本居宣長の『訂正古訓古事記』の訳になっている。
原文を参照してみると、冒頭の一文の中に「天」が3回使われている。そこに注があり、「高の下の天は阿麻と云う」と書かれている。しかし、本居宣長の読みは「たかまのはら」となっている。これはよく理解できないので、その時代のことをよく知る必要があると思い、古代史の研究に入ってきた。しかし、この読み方でさえはっきりしないというのが現状である。
『古事記』や『日本書紀』には注がたくさん書かれている。「背中」とか「割注」と呼ばれるが、それらをどう解釈するのかが研究課題にもなる。

そんな時代背景を調べていくうちに第二次遣唐使(653年)がキーになるとわかってきた。

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第二次遣唐使
  白雉4年(653)に渡唐し、朝鮮半島を経て帰国(665)した人々。
  →定恵(643-667)中臣鎌足の長子で、不比等の兄。
  →道照(629-700)玄奘三蔵に師事。日本で初めて火葬された。
  →粟田真人(?-719)大宝2年(702)5月に参議となり、渡周(703)した。
  →韓智興(生死不詳)別倭種のため冤罪で配流後、許されて定恵と共に帰国。
  ※伊吉連博徳(生死不詳)智興の無罪を弁明、大宝律令の編纂にも参与。
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定恵は帰国した翌年に亡くなるのだが、この人物が石上麻呂と藤原不比等を結び付けたと思われるからだ。つまり、石上麻呂の前身である人物が定恵とともに唐に渡っているのだ。道照は初めて火葬された人。粟田真人は「日本」という国名を対外的に初めて使った人。韓智興は石上麻呂その人と思われる。

持統天皇の事績を見るときに、石上麻呂の事績を振り返ると、その時代のことがよく見えてくるので、古代史ビューア【麻呂】を使って振り返ってみたい。

まずは『日本書紀』記載部分。
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壬申の乱(672)で、大友皇子の死を看取る。
大乙上で遣新羅大使(676)になる。
羅唐戦争(670-676)終結後に帰国する。
天武天皇十年(681)粟田眞人等と共に小錦下を叙位。
朱鳥元年(686)天武天皇崩御時、法官について誄する。
持統三年(689)筑紫に派遣され、新城を監する。
持統三年(690)持統天皇即位時に大楯を樹する。
持統十年(696) 政権のナンバー4になる。
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次に『続日本紀』記載部分。
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文武四年(700)10月15日石上朝臣麻呂が総領になる。
大宝元年(701)3月21日石上朝臣麻呂が大納言になる。
大宝元年(701)7月21日左大臣多治比眞人嶋が薨去。
大宝二年(702)8月16日石上朝臣麻呂が大宰師になる。
大宝三年(703)閏四月右大臣阿倍朝臣御主人が薨去。
慶雲元年(704)1月7日大納言石上朝臣麻呂が右大臣になる。
慶雲元年(704)1月11日二千一百七十戸を益封される。
和銅元年(708)1月朔11日正二位となる。
和銅元年(708)3月13日石上麻呂が左大臣になる。
和銅元年(708)7月15日石上麻呂政権の成立を祝う。
和銅三年(710)3月10日平城遷都開始され旧都の留守となる。
和銅三年(710)7月朔7日左大臣舍人の牟佐村主相摸が瓜を献上 。
養老元年(717)3月3日左大臣石上麻呂薨去。
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■「高原」と「天」についての論考

さきほど物部を表すのが「高原」であるという話をしたが、「高原」を検索すると『古事記』『日本書紀』『萬葉集』には1回も現れない。ところが『続日本紀』に1回だけ登場する。790年のところである。
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韓國連源という人が「自分は物部大連の子孫である。物部は自分の住んでいるところの名前をつけたりして180氏ある。源の先祖である塩兒は自分の住んだ国の名前に由来して物部連を韓國連にした。しかし、われわれは大連の子孫で本来は日本の古い民の子孫であるが、今韓國を名乗るといろいろと都合が悪いので名前を自分の住む場所の名前に変えたい。そのようなことで「韓國」を「高原」に変えたい。ということで許されたという記述である。
ここで重要なのは「高原」というのは住んでいる場所であるとしていることである。「高原」というのは先ほど見たように、8世紀の書物の中でこの1か所しか登場しない。韓國連は下野の人である。下野にあるのが高原山であり、現在もそう呼ばれている。つまりこの「高原」というのは栃木県那須である。

さらに「自分は物部大連の子孫である。」というところに注目する。「大連」を検索すると『続日本紀』に3回登場しており、うち2回は、今ほどの790年の部分。残りの1回は717年に石上麻呂が亡くなった部分である。そこには石上麻呂は「大連物部目」という人の子孫であると書かれている。

これで「高天原」のうち「高原」は明らかに物部氏のことを指していることがわかる。

そうすると「天」とはなんだろうということになる。そんな中ある1冊の文献に出会った。平安時代に書かれた歌論『俊頼髄脳』である。
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この中で、すべての言葉には異名(違う言い方)があるとして様々な言葉が並んでいるのだが、その先頭に「天 なかとみ」と記されている。

これで、

高原 : 物部
天  : 中臣

という推定が成り立つ。つまり、「高天原」というのは「物部」と「中臣」を組み合わせて作った言葉であると言える。

そして、その「高天原」を持統天皇の和風諡号「高天原廣野姫」として使ったのである。そういう政治的用語であるというのが私の説である。

【資料3】麻呂・不比等の冠位変遷と日本語「高天原」の成立
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ここまで話してきたことをこの資料にまとめてある。

「高天原」は物部を表す「高原」と中臣を表す「天」を組み合わせた言葉で、麻呂と不比等の政治的立場を表している。空を意味する「天原」にすぐれたという修飾語の「高」をつけたという使われ方はしているが、言葉そのものの成り立ちは極めて政治的な背景から作られたものである。

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2018-07-05

『日本書紀』を読む(5)遣唐使・遣周使と日本建国

見附市学びの駅ふぁみりあでシリーズ開催されている「古代日本史講座」。
17期の『日本書紀』成立1300年!その謎を解くシリーズ。今回はその第7回「『日本書紀』を読む(5)遣唐使・遣周使と日本建国『第二回遣唐使(653)に参加した若者や関係者が、律令国家「日本」を建国した。』」と題して、第二回遣唐使のメンバーの重要性に迫る。
※以下「私」と記述している部分は関根先生のことを指しています。

■プロローグ:遣唐使概要

今日のテーマである第二回遣唐使の話に入る前に、一般的な遣唐使の知識がわかりやすい講義形式の動画があるのでそれを見てもらいたい。

この動画では次のような内容を話している。
618年に唐が中国を統一し、周辺諸国との交流が盛んになってきた。日本も630年に最初の遣唐使を派遣し、894年に菅原道真の建議により廃止するまで十数回の派遣が行われた。たくさんの大使、留学生、学問僧などが唐に渡り、日本の政治・文化に大きな役割を果たした。

■古代日本の中国との外交を概観する

【資料1】資料紹介 河合敦『早わかり日本史』(日本実業出版社1997)
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この資料で対中国外交を概観する。遣唐使の前にも中国と日本はかなり昔から交流があった。今回の講座シリーズでも卑弥呼の時代の中国との関係をお話した。それがとだえてしばらくしてからまた5世紀くらいに交流が始まったが朝貢外交で会った。その後、隋という時代になって聖徳太子が交流を進めた。基本的に平等の外交で隋に対したというような話が残っている。その後、8世紀には20年に1度の割合で遣唐使を派遣していたが、9世紀に菅原道真の建議により廃止された。
この長い歴史を持つ遣隋使~遣唐使の中でも、8世紀に鑑真が来日したり、藤原仲麻呂が唐に渡って出世して帰してもらえなかった一方、吉備真備が帰国して活躍し右大臣にまでなるという活躍をしたことなどが有名である。

しかし、ここ数年、平城京遷都の前後の歴史をテーマに調べ始めてみると、第二回遣唐使の重要性の重要性が浮き上がってきたが、一般的にはほとんど取り上げられることがない。今日はこの部分にスポットを当ててゆきたい。

■律令制度とは

遣唐使により中国から日本にもたらされたもので政治に大きくかかわるものと言えば律令制度であろう。少し整理しておきたい。

律令制度は調べれば調べるほど面白い。それも時代によって変わっていく。

【資料2】資料紹介 河合敦『早わかり日本史』(日本実業出版社1997)
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この資料の図に整理してあるが、668年の近江令から始まり、10世紀頃(平安時代)まで続く。
この律令制度で作られたしくみは明治以降、現代の官僚システムまでかなりの部分で続いている。律令制度とは官僚システムなのでいわば政府の形の取り決めである。この本には「ややゆるやか(!?)な律令」としているが、私の感想としては中国よりもかえって整っているのではないかと思う。中国はそもそも儒教の国なので、国の仕組みを法律で取り仕切るというのは中国全史から見るとかなり例外的である。

この律令制度を最大に活用したのは「則天武后」、後の周という国を作った「武則天」という中国唯一の女帝が、自分の配下を作るために使ったものと考えてよい。
日本の「天皇」という呼称もこの武則天の律令制度からとってきたと考えられる。
則天武后と同時期に日本では持統天皇が誕生し、その体制の中で大宝律令というしっかりしたものが作り上げられた。

この資料の表で大宝律令の中心人物に刑部親王と藤原不比等、養老律令に藤原不比等の名前を挙げているが、忘れてはならないのが石上麻呂である。不比等と一緒に、あるいは不比等を強く牽引して律令制度を作り上げたのは石上麻呂だからである。

平安時代になると「格式」というものが制定される。これは律令を修正して施行規則を定めたもの。

律令制度については、誰が日本にもたらし、どのように運営していったのかというのをもっときちんととらえなければいけないのではないかと、私は思っている。特に初期段階についてはほとんど研究されていないのではないかと思う。
例えば石ノ森章太郎の「日本の歴史」は監修もしっかりしているが、第二回遣唐使については何も触れられていない。

それが、現在の一般的な遣唐使のとらえ方であることをまず認識しておきたい。

■「日本」(ヤマト)建国と遣唐使に対する私の思い

今日の講義表題は「遣唐使・遣周使と日本建国」だが、「日本」という古代語(実は「ヤマト」)がいつできたのか、「ヤマト」という名前の国がいつできたのか、ということはよくわかっていない。取り上げられる本によっていろいろな書き方がされる。
この「日本」という国がどういうふうに誰によって作られたのかということをしっかりとみていきたい、というのが私の思いである。なぜかというと、まさに『古事記』が成立した時代のことだからである。『古事記』は712年に成立したが、その『古事記』を作った人たちの話である。
自分自身が『古事記』の研究から始まったのだが、よくわからないことが多かった。わからないのならそれができた時代背景を探っていったらいいのではないかという思いで古代史研究に取り組んできた。
それには712年以前の10年、20年、さらにさかのぼって30~40年、50~60年あたりのことが研究の対象となる。それはまさに第二回、第三回遣唐使の時代が大きなポイントになってくる。

結論から言うと、遣唐使がもたらしたものから律令制度をはじめ様々なものができ、「日本」という国が生まれていったと言える。

今回はそこのところを詳しく話そうと思っていたが、現状でまだまとめきれていないので、回を改めてお話したいと思う。

■真の「日本建国」とは

ここに紹介する資料は榎本秋さんという方がまとめた図解を中心とした本で、表紙イラストも本格的なものでイメージが膨らみ見ていて楽しい。

【資料3】資料紹介 榎本秋『徹底図解 飛鳥・奈良』(新星出版社2008)
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「大宝律令-『倭』から 『日本』へ」というタイトルが付いた章を紹介しているが、このタイトルを見ると「倭」から「日本」になったのは大宝律令のできた701年頃なのではないのか、ということがにじみ出ている。
「大宝」は年号である。年号については645年頃に「大化」という年号が作られて以来、途中中断しながら使われてきた。それが「大宝」になってから現代まで1300年の間途切れることなく年号は使われてきている。そういうことからも「大宝律令」は注目すべきものである。
また確かに大宝律令のもと、国号も「日本」として改められた。

この資料の図の下部には日本の思惑と唐の認識の間にはズレがあったことが説明されている。ズレは国内にもあった。「天皇」という君主号が最初に使われたのは天武天皇であることは間違いないと思う。これは発掘された木簡からも証明されている。ただし、かと言って「日本」という名前がしっかり国号として認識されていたかというと疑問を感じる。たぶんそのようにはなっていなかったのではないかと思う。

それでは歴史的に見て日本が本当に「日本」と呼ばれたのがいつ頃なのか。まず律令制度ができる、そして「和同開珎」という貨幣ができる。そして何よりも708年に石上政権ができてきちんとした官僚制度が整備される。かつ政治を行うための都が整備される。そういう何拍子もそろって作られたものを新しい天皇の即位とともに発表した。それが霊亀元年(715年)にあたる。さらにそれを記念する形で『日本書紀』という歴史書が完成した。これらをもって「日本」の建国がなされたと私は考えている。

中国の律令国家と日本の律令国家では決定的な違いがある。
中国の律令制度は皇帝、もっと具体的に言えば「武則天」のための制度であった。それまでは一族が牛耳っていたが、武則天は高官数百人を粛清してしまった。そのために国をまとめていくための才能ある人材が必要になり、「科挙」制度を利用して優秀な人材を集めた。そのために律令制度を整備したという経緯がある。
ところが日本は律令制度を整備するにあたり、天皇はお飾りにし、官僚そのものが国を支配するというしくみにした。その結果が藤原氏の台頭になっていった。

■石上政権が作り上げた律令国家

先ほども述べたように、この頃誕生した律令制度は現在まで綿々と受け継がれている。ただし、制度である以上、トップが腐れば制度そのものも腐敗していくのはいたしかたない、それは昔も現代も同じだ。
しかし、石上政権時の国家はかなりきちんと機能していたと思われる。

【資料4】律令国家「日本」建国の礎を築いた中央官僚たち。
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和銅元年(708年)に石上麻呂が左大臣につき、石上政権が完成した時の官僚たちの一覧を資料にまとめた。こうしてみるとすごくしっかりとした組織ができていることがわかる。

官僚一覧の「太宰帥」に位置している「粟田朝臣眞人」は、今日のテーマ「日本建国」を語るときに必ず登場する人物。700年初頭、周に渡り、武則天に会い「日本」について語ったと記されているからである。しかし、どういう形で周に渡り武則天と面談したのかという経緯は何も残されていない。小役人に「どかから来たか」と問われ「日本から来た」と答えたという会話が書かれているが、それを「日本が送り出した」と解釈する人が多い。それをもって「日本の国は700年初頭にできた」とする人はかなり多い。
しかし、日本の国史として行ったという表現があえてされていない。眞人が小役人に対して「日本から来た」と名乗ったという記述しかされていない。その時に「ここはどこか」というような質問をしたりしていて、妙な会話となっている。

持統天皇の頃まではここまでしっかりした陣容はなく、皇族にまつわるできごとがいろいろ書いてあるに過ぎない。ここまでしっかりできていればかなりの国づくりが始まったとみてよいのではないか。
まさに708年にはこうした形で中央官僚が支配する国ができたことが書紀の中には書かれている。

■古代史ビューア【麻呂】を使って日本建国の軌跡をたどる

いつもの講義では私が【麻呂】を操作して文献検索を見てもらっているが、今日は受講生の方から数名の方に出ていただき、私がサポートするのでご自分で検索作業を行っていただくこととする。

まずは『日本書紀』を執筆するには漢字を使う必要があり、そのための辞書が編纂された。それが「新字」である。

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その「新字」というキーワードで検索をスタートすると『日本書紀』には1か所の該当があり、「境部連石積」等が命じられて44巻からなる辞書を作ったことが記されている。そこから人物名をたどっていくと第二回遣唐使にたどり着く。

次のキーワードは「日本」。
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『日本書紀』には「日本」という言葉は232回も登場するが、『古事記』には1回も登場しないことがわかる。では『続日本紀』はどうか『日本後記』と辿っていくと意外な状況が見えてくる。

最後は「粟田眞人」。
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先ほども何回か取り上げたが、この人物も石上麻呂と共に重要なところに登場することがわかる。

(実際に操作された受講生の方々はそれぞれに納得されていたようだ)

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2018-06-21

『日本書紀』を読む(4)聖帝仁徳と暴君雄略の実像を、『古事記』の表記と原文分析から推定する。

見附市学びの駅ふぁみりあでシリーズ開催されている「古代日本史講座」。
17期の『日本書紀』成立1300年!その謎を解くシリーズ。今回はその第6回「『日本書紀』を読む(4)聖帝仁徳と暴君雄略の実像を、「『古事記』の表記と原文分析から推定する。」と題して、仁徳天皇と雄略天皇実像を探っていく。
※以下「私」と記述している部分は関根先生のことを指しています。

■プロローグ:歴代天皇一覧

前回までで、神々の物語から始まり、神撫天皇、欠史七代、崇神天皇、景行天皇という時代を辿ってきた。天皇の変遷についてYouTubeに分かりやすい動画があったので、復習もかねて見ていただきたい。このビデオは、暗殺されたといったことをはじめとしてわりと客観的に簡潔に天皇の系譜を紹介している。

(33代推古天皇まで視聴)
今の推古天皇までが『古事記』に書かれているところ。今日取り上げる仁徳天皇から推古天皇までが『古事記』下巻にあたる。(舒明天皇の名前だけが少し紹介されて終わる)
一方『日本書紀』は次の舒明天皇から持統天皇までの30年間についても記されている。

■日本神話に取り入れられたもの

【資料1】資料紹介 河合敦『早わかり日本史』(日本実業出版社1997)
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これは少し前に出版されたものだが、『古事記』と『日本書紀』の一般説としての編纂目的が分かりやすくまとめられている。
私がこれに対して付け加えたい点が2点ある。
まず、日本神話は東南アジアの神話を骨格とし、中国、朝鮮、南太平洋、ギリシャ神話などの影響を受けているとしているが、日本の各氏族の祖先伝承的な神話も書かれており、それも加えるべきだ。
次に「大和朝廷の歴史」と記載されているが、『日本書紀』の時代の政権に「大和」ということがを使うのに私は違和感がある。
『続日本紀』を「大和」で検索した結果を下に示す。
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赤い線で示されているところは757年であり、それ以降は「大和」という名称が頻出している。しかし、それまでは一般的な名称として「大和」が使われていなかったのは一目瞭然だ。
もちろん、国名を指す「日本」(にほん)という言葉も、現在では弥生時代にまで遡って用いられることが多く、便宜上それはしかたのないことである。しかし政権という組織を表す言葉に当時はまったく使われていなかった「大和」を使うのは大きな違和感を感じる。
この750年頃から為政者たちの意識が「日本」(ヤマト)から「大和」(ヤマト)に変わっていったというのが私の「大和」観である。
なので、あえて「大和」を使うのならカタカナの「ヤマト」を使う。

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この757年を見ると「壬申年功田」という言葉がたくさん使われている。これは80年も前の壬申の乱の功績に褒賞を与えていることを記している。この時期は過去の見直しや新たな展開を積極的に進めており、その中から『続日本紀』も出てきており、この頃のいろいろな思惑が入ってきている。平城京から平安京に移った時の政治の形がこういうところに出てきているのと同様に、720年に成立した『日本書紀』にはその頃の政治の動向がそのまま反映されているのではないかと考える。

■この時代の『日本書紀』の内容に関する個人的感想

『古事記』下巻の最初に出てくる仁徳天皇と、その5代後に登場する雄略天皇を見ていきたい。『古事記』下巻に登場する天皇の中でかなりエポックになる人物なので取り上げることにする。

その前に、この時代の『日本書紀』をあらためて読み返してみて感じていることをお話したい。
ここに私が常日頃参照している岩波版「日本書紀」上下巻がある。興味のある所に付箋紙を貼っているのだが、見ていただいてわかるように、下巻にはたくさんの付箋紙が張ってあるのに対して上巻には数枚しかない。これは私自身の『日本書紀』に対する興味の度合いだと思ってもらってよい。
上巻で語られる天皇の物語は読んでいてつまらないと感じる。言い方は悪いが虚構性やインチキ臭さがをまず感じてしまうのだ。

仁徳天皇というと一般的には聖帝とされているが実のところはどうなのだろう。『日本書紀』の記述によると弟と皇位を譲り合うのだが、弟が自殺してしまう。それで馬乗りになって呪文を唱えると息を吹き返し話し合った後また死んでゆく、というようなストーリーが描かれ、いがみ合わずに譲り合うことの大切さを説いたと思われる部分がある。その反面、やたらに人を殺したりだまし討ちにしたりする話が出てくる。これは何なんだろう。

天皇家を神聖化したり権威付けしたりする目的で書かれていることは間違いないのだが、本当に天皇家の物語なのかと疑問に思うようなところがたくさんある。
これは、みんなちゃんと読まないであろうことを前提として、本音の部分、伝承の部分、つまりある種歴史的事実がたくさん残存しているのではないかと思える。

したがって、歴史的事実は何かという視点でとらえていくとかなり大変な作業になる。私はここ数年間、720年に至る50年間ほどを古代史研究のメインテーマとしてきたが、この期間だけでも大変である。それを考えると、これらの1000年近くを相手にするのはものすごいエネルギーがいりそうだ。
とはいえ、今シリーズであらためてアプローチしてみると興味ある部分も出てくるので、そのようなところをお伝えできればと思っている。

■「倭の五王」

ウィキペディアの「倭の五王」の項を見ていただきたい。
今日課題にしている仁徳天皇とか雄略天皇などその前後のところは、古墳と言われるものが日本にたくさんできた時代にあたる。前回の講座でお話した4世紀は「空白の4世紀」などと呼ばれ、中国にも朝鮮にも日本に関する資料が見つかっていない時期だが、そのあと「倭の五王」と呼ばれる人たちの記述が中国に見られる。日本から5人の王が中国に朝貢してきたという記録が見つかっている。
それが、応神天皇から今回取り上げる雄略天皇までのことではないかというのが、『日本書紀』と比較して導き出した比定説である。しかし、実際のところ事実はほとんどわかっていない。

次に同じくウィキペディアの「稲荷山古墳出土鉄剣」の項
埼玉県の稲荷山古墳から出土されたもので、鉄拳に金で象嵌されていてかなり長い文章が確認される。その中に「獲加多支鹵大王」という記述があり、ワカタケル大王つまり雄略天皇のことであると解釈するのが一般的である。その雄略天皇は「倭の五王」の中の最後の「武」であるということが定説になりつつある。

【資料2】資料紹介 原遥平『人物で読み解く【かんぺき】日本史』(こう書房2000)
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今日の仁徳天皇、雄略天皇の時代はそんな背景の時代である。

■仁徳天皇

「仁徳」というのは後でつけられた中国風の名前で、基本的には「おほさざき」と呼ばれていた。そしてこれを漢字でどう表記するかで『古事記』と『日本書紀』で違いがある。
『古事記』では「大雀」、『日本書紀』では「大鷦鷯」であるが、どちらも「おほさざき」と呼ぶ。
このことについては以前から興味があり調べていて、この講座でも過去に取り上げたことがある。重複する部分もあるが改めて紹介したい。

【資料3】Watch! 古事記下巻が示唆する編纂者像『大雀表記と下巻の意味は』
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この資料の真ん中に載せてあるのが真福寺本古事記の「大雀」(おほさざき)表記の部分、右側が本居宣長が過去のものを参考にしつつ自分が解釈した「大雀」の部分。そして左側に載せたのが江戸時代の寛永版古事記の写本である。『古事記』なのに日本書紀式の表記となっている。(改竄してある)

改めて真ん中の真福寺本古事記を見ていただきたい。「古事記下巻」というタイトルの後に「大雀」と続いている。
そもそも「雀」という字の成り立ちを調べるために漢字海で調べてみると「説文」として「人里近くにいる小鳥。『小』(ちいさい)と『隹』(とり)から構成されている。」となっている。
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つまり小さい鳥というのが基本的な意味である。このことについては漢字についてかなりこだわりがあった時代の『古事記』『日本書紀』の作者は分かっていたはずだ。それにもかかわらず「大きな小鳥」というおかしな表記を天皇につけるというのはどうしてだろう。

さらに真福寺本の下巻冒頭には「仁徳」と注記してある箇所があり、それは「大集」と表記してある。漢字海で今度は「集」を調べてみると、なりたちが「多くの鳥が木の上にいるさま」となっている。
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この下巻冒頭部分には引き続き「太雀」という表記も現れる。
3種類の書き方で仁徳を示し、人物像のようなものを訴えているととらえられる。

ここで右側の「宣長本古事記の序」を見ていただきたい。「臣安麻呂これを献上する」と書いてある。「安麻呂」とはもちろん「太安麻呂」のことである。「太安万侶」は「太」という表記になっているが、安麻呂の氏族はもともと「多氏」と呼ばれていたが、安麻呂は自分で「太」という表記に変えている。ということは「太」という字は当時あまり悪い意味ではなかったのかもしれないと想像する。

ということは、この真福寺本で見られる3種類の表記は「小さい小鳥がいっぱい鳥を集めているうちに太くなった」というような肯定的な意味を表しているのかもしれない。
真福寺本古事記はこのように興味深い書き方をしているが、『日本書紀』にはこんなばかにしたような書き方は失礼だということで「大鷦鷯」と改められたのではないだろうか。あるいは『日本書紀』に「大鷦鷯」と書かれていたのを見た太安麻呂が、『古事記』にはあえて揶揄した表記にしたのかもしれない。それは『日本書紀』の大部分は『古事記』編纂以前にできていた可能性が高いからである。

それをさらに1000年ほど経った江戸時代初期に、やはり「大雀」表記はまずいということで寛永本古事記では『日本書紀』にならった表記に書き換えられたのではないだろうか。つまり、天皇の名前に「大きな小鳥」はまずいのでは、と感じた人がいたということの証拠となる。そしてそういうような評価を受ける天皇が仁徳天皇ではなかったではないか、というのが歴史的事実ではないかと思う。

このようなことを踏まえて改めて『日本書紀』を読んでみていただきたいが、岩波版の他には石ノ森章太郎の『日本の歴史』シリーズはとてもお勧めである。歴史と物語をうまく取り込みながらきちんと解釈して内容をまとめている。

■雄略天皇

仁徳天皇から5代後に即位したのが雄略天皇。もともとの名が「大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)」といい、「倭の五王」のところで話したように稲荷山古墳から見つかった金錯銘鉄剣銘などを証とし、「武」とされる人物に比定されている。これらはほぼ事実とみて間違いない。

暴力的な行動が多く書かれていることより大悪天皇と呼ばれている反面、有徳天皇などと真反対に書かれる場合もある。これらのことは、この天皇になった時代にかなり強大な国になったと言われている一因であろう。(私はどこまで強大だったのか疑問に感じるが。)

【資料4】資料紹介 宇治谷孟『日本書紀(上)』(講談社学術文庫1988)
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この資料は、私が現代語訳としてとても活用している宇治谷孟さんの『日本書紀』から雄略天皇の記述を抜粋したもの。天皇に即位したときのことと緒妃とのかかわりを書いてある。

この記述の中に興味深い内容があり、最近注目している。それは「物部連目を大連とした」というくだりである。

私のメインテーマの石上麻呂が亡くなった717年3月3日の『続日本紀』の記述に「大臣泊瀬朝倉朝庭大連物部目之後」というものがある。
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大臣(石上麻呂)は「泊瀬朝倉朝庭」(雄略天皇の営んだ宮殿)の「大連物部目」(おおむらじものべのもく)の祖先である、と書かれている。
そこで「大連物部目」で日本書紀や古事記を検索するがヒットしない。そういう場合は字句を絞り込んで検索してみるとよい。「大連」や「物部連」などで検索すると『日本書紀』の雄略天皇に以下の個所がヒットした。
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「物部連目爲大連。」つまり、「物部連目」(もののべむらじもく)が雄略天皇によって「大連」(おおむらじ)となった、という記述である。

この物部目についてのエピソードを資料に紹介しているが、一晩しか夜を共にしなかった采女から生まれた女の子を自分の子供と認めなかった天皇に対して、「一晩に何度呼ばれましたか」と質問し、天皇が「七回呼んだ」と答えたことから女の子を皇女と認めさせた、というような話が書いてある。

■エピローグ:歴史が残っていくということ

この1300年前の一見どうでもいいような子供認知のエピソードを現代のわれわれが目にしているということについて、歴史が残ることについての偶然性について感じるところがある。

私の家では紙ごみをリサイクル業者に持ち込んで処分してもらうのだが、ある時、積み重なったごみの中に時宗の年報や専門書などが山積みになっているのを発見した。業者に交渉して一部を廃棄せずに持ち帰り保存することができたが、こんな偶然から歴史が忘れ去られたり引き継がれたりする。
『日本書紀』や『古事記』なども、何巻かの巻物として当初は存在していたはずだが、そうやって拾われたり捨てられたりしてきたのだろう。そう考えると、1300年前のものが写本にしろ何冊も現代に引き継がれているということは素晴らしいことだと思う。

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2018-06-07

『日本書紀』を読む(3)崇神天皇と古代王権の萌芽

見附市学びの駅ふぁみりあでシリーズ開催されている「古代日本史講座」。
17期の『日本書紀』成立1300年!その謎を解くシリーズ。今回はその第5回「『日本書紀』を読む(3)崇神天皇と古代王権の萌芽」と題して、崇神天皇と景行天皇の事績を中心に進めていく。
※以下「私」と記述している部分は関根先生のことを指しています。

■プロローグ「ごみの不法投棄事件から歴史に向き合う姿勢を再確認

最近、私の自宅近くの道路にごみの不法投棄が多発していた。
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あまりにも目に余る状態が続いていたが、先日ごみの中身が道路に散乱しており、いくつか個人を特定するような書類が見つかったので、ひとつひとつネットなどで調査した。その結果、容疑者が通っていたと思われる現在の職場、過去の職場、商業施設などを明らかにし、人物を推定することができた。それらを警察署に届け出て、捜査してもらった結果、推定した容疑者が犯人であることが判明した。

今回の事件とその対応を通じて、歴史に向き合う姿勢・手法と同じであると感じた。現代に残されている断片的な資料、物的証拠、地理的条件などを丹念に分析し、こうであろうという歴史的事実、人物像などを明確にしていく。そしてそれらを記録していく。客観的な事実の積み上げこそが歴史研究には大事なのではないだろうか。

■ウィキペディアで概観する

『日本書紀』』の第五巻から書かれているのが崇神天皇。ウィキペディアの記載を確認してみると次のようなことが書かれている。

・和風諡号は『日本書紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)。
・四道将軍を派遣して支配領域を広げ、課税を始めて国家体制を整えたことから
御肇國天皇(はつくにしらすすめらのみこと)と称えられる。
・『古事記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)。

神武天皇についても初めて国を作ったという位置づけになっているが、神武天皇という人物は実在せず、崇神天皇が初めて実在したのではないかということが一般的に言われている。

掲載されている系図を確認してみる。
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崇神天皇は第10代となる。これ以前は欠史と言われていてなにも事績が書かれていないが、崇神天皇の代から詳しい事績が書かれるようになる。状況としては国際的な広がりが出てきて任那、新羅、百済などがこのあたりから登場する。

第11代垂仁天皇
・和風諡号は『日本書紀』では活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)
・『古事記』には「伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)」とされている。

この後、12代景行天皇、13代成務天皇と続くが、この範囲が本日のテーマになる。

■崇神天皇と「四道将軍」

【資料1】資料紹介 別冊宝島1671『古事記と日本書紀』(宝島社2010)
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崇神天皇は諸国平定を企図して、「オオビコ」の活躍など全国に将軍を差し向けたとされているが、『古事記』と『日本書紀』では食い違いがある。この本は『古事記』での記述をベースに解説してあるが、記紀の違いを別枠で説明して「平定の過程を象徴化したものだろう」としている。

■空白の四世紀

この時代に日本については、中国や朝鮮にほとんど資料がない。日本では『古事記』『日本書紀』にヤマトタケルを代表とする英雄が登場し、小説やコミックなどでもよく描かれていたりするが、全部が全部史実とは思えない状況だ。事実は何かという視点で『日本書紀』を読んでみると、具体的に歴史的事実と考えられることはほとんどない。

【資料2】資料紹介 主婦の友ベストBOOKS『古事記と日本書紀』(主婦の友社2010)
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この資料に述べられているようにヤマトタケルについても『古事記』では悲劇性を前面に出したストーリーで読む人を引き付けるが、『日本書紀』では慈悲深い景行天皇と従順で勇敢な息子のヤマトタケルという関係性の話になっている。

ヤマトタケルのエピソードもそうだが、この時代の英雄譚は裏切り、暗殺、長兄の失脚を弟が拾う、というような話ばかりであり、すっきりしない。
私の大学時代は学生運動が過激化、退廃していく頃であった。革マル派や中核派など
グループ同士の確執も醜かったが、いわゆる国家権力側がさらにお互いをつぶし合わ
せるというような計略を弄していたのを目の当たりにした。
それと同じような状況がこの時代の『日本書紀』を読んでいるといたるところに出てくる。権力者がうまく立ち回り、そのようなだましあいつぶしあいばかりで暗澹たる気分になる。

そもそも前回も話したように、『日本書紀』は律令制による支配を強固なものにするため、天皇を神格化するのが大きな狙い。(もっともその後律令制度が弱体化し、仏教がそれにとって代わっていく流れとなるが)
しかし、この時に基礎が作られた律令制は現代まで脈々と生き続けている。制度だけでなく言葉についてもこの時代に基礎が作られてきた。それはすごいことだと思う。

奈良盆地には古代、大きな湖があったという、前回お話した説にもからむが、奈良盆地の周囲には多数の古墳が見つかっている。古墳はヤマト王権が作って全国に派生していったのではなく、実は地方で発生したものかもしれない。英雄譚で語られる九州勢力の東征などでヤマトに持ち込まれ、連合政権の各豪族がヤマトに集まった際に競い合ってつくったものではないか。三世紀から五世紀にかけ、奈良湖は縮小し田畑として開拓されていく。古墳は各勢力の象徴として、また開発地の土留めのような用途も兼ねて作られていったのではないかと想像できる。

■「遠祖」から導き出せる五大夫の子孫

古代史ビューア【麻呂】を使って分析を行うと様々な気づきがあるが、今日はその中の一つ「遠祖」を取り上げてみたい。「遠祖」については前回も紹介したが、『日本書紀』の中で出てくる家系が、当時のいろいろな一族の祖先であることをいたるところで紹介している際に使われる言葉だ。

検索すると神代を中心に全部で42回使われていることがわかる。
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一番最初は神代上7段に「中臣連」の遠祖について書かれており、一番最後は神功皇后の段での記述で終わっている。まさに遠い祖先のことを説明している。
それぞれをひとうひとつ見ていくといろいろな発見があるが、その中でも極めつけて意味深く面白い記述を紹介したい。
それは垂仁天皇二十五年2月8日の部分だ。【麻呂】で検索した画面は以下の通りとなる。この画面は強調表示に「垂仁二十五年」というグループを新規作成し、同一箇所に5回出現する「遠祖」にちなんだ名称を強調表示するように設定した。さらに新たに追加した機能により、この強調グループの語句群をそのままカスタム検索のグループとして作成してある。
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ここに登場する一族は見覚えのある名前が並んでいる。

阿倍臣遠祖武渟川別。
和珥臣遠祖彦國。
中臣連遠祖大鹿嶋。
物部連遠祖十千根。
大伴連遠祖武日

「安倍」「中臣」「物部」「大伴」いずれもそうそうたる一族であり、『日本書紀』成立期の政権中枢の一族だ。しかし「和珥」(わに)は見覚えがない。今まで見てきた『古事記』『日本書紀』成立期の登場人物には見当たらない名前だ。ウィキペディアなどで調べてみると枝氏族の中に「粟田氏」の名前を発見する。「粟田真人」は『日本書紀』ができる1年前の719年に三位の中納言で亡くなっており、『日本書紀』成立期の政権中枢の人物ということがわかる。(しかも「粟田真人」も653年の遣唐使の一員であることはとても重要だ)

この部分をまとめたのが次の資料。

【資料3】資料紹介 日本古典文学大系『日本書紀』(岩波書店1988)
      資料紹介 井上光貞監訳『日本書紀』(中央公論社1987)
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岩波版『日本書紀』から原文、中央公論版の『日本書紀』から現代語訳を引用している。さらに、左上部分に五大夫の子孫の対応しているであろう人物を示している。

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阿倍臣遠祖武渟川別。 →阿部宿奈麻呂(平城遷都の長官、トップを務めた)
和珥臣遠祖彦國。 →粟田朝臣真人
中臣連遠祖大鹿嶋。 →藤原朝臣大嶋&不比等(「大嶋」は「不比等」以上に重要かもしれない)
物部連遠祖十千根。 →石上朝臣麻呂
大伴連遠祖武日。 →大伴朝臣安麻呂
------------------------------------------------------------------

『日本書紀』編纂期の政権トップ5が表記されているに等しく、大きな意図がありそうに思える。つまり、国が作り始められたころのトップ5は今(『日本書紀』成立期)のトップ5と同じだと言っているようにとらえられる。

【資料4】ウィキペディア『阿部野宿奈麻呂』
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五大夫の先頭に書かれている「阿部宿奈麻呂」についてウィキペディアの記事を紹介する。亡くなったのは720年であり『日本書紀』の成立年である。そういうことを示唆する形でトップに書かれている。編纂期のトップは石上麻呂であるが、ここに平城京建設の責任者だった「阿部」氏がトップに書かれているのは何か意味があると思われる。

【資料5】ウィキペディア『粟田真人』

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次に書かれている「和珥」は「粟田真人」を示唆していると考えられる。とても重要な653年の遣唐使の一員として唐に渡り研鑽を積み、さらに半世紀後遣唐執節使として周に渡り、武則天に日本建国を伝えるという重要な役割を演じた。『日本書紀』成立の前年719年に亡くなっている。

次の「中臣連」は基本的には不比等ととらえられるが、もう一人踏まえておきたい人物がいる。

【資料5】ウィキペディア『中臣大島』
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大嶋は不比等に先立って「中臣連」あるいは「藤原朝臣」の筆頭となった人物。
事績としては、天武期に『日本書紀』の編纂が始まった時に、そのメンバーの一人であり、かつ実際に執筆したということが記されている人物。つまり『日本書紀』の執筆者の確かなひとりである。
また、「藤原朝臣」と最初に名乗ったのはこの人物である可能性が高い。

■そしてさらに・・・

私の研究は710年前後のところを押さえたいというのが中心にある。なぜならば『古事記』ができたころの時代背景であり、『日本書紀』編纂期の頃の時代背景であるからである。それが崇神あるいは垂仁というヤマト朝廷ができたであろうところに「遠祖」という形で表現されていることを見てきた。

資料3で書いたように『日本書紀』編纂の目的は
①天皇を神格化させて権威を高め、中央官僚による人民支配の道具にする。
②各氏族の祖先を天皇家と関連付け、天皇に対する下級官僚や民衆の帰属性を高める。
ことにあるととらえている。それを裏付ける記述とも考えられる。

そしてもう一つ。五大夫の順番で「阿倍」「粟田」の順番になっていることを見逃せない。『日本書紀』の編纂を推し進めた勢力は「阿倍」「粟田」両氏だったのではないか。もし石上麻呂や藤原不比等が編纂の中心になっていたのであれば、五大夫の表記順は変わっていたはずだ。つまり『日本書紀』には、権力の変遷が祖先の表記として記述されている。

最終的に『日本書紀』の編纂を主導したのは石上麻呂、藤原不比等の後継者の人たちだった。石上麻呂、不比等が亡くなる前後の時代、当時の政治的権力は後継者に移りかけていた。不比等が亡くなる頃には、求心力を失った政権内で権力闘争が始まった。その直前の状況が『日本書紀』の記述に現れているとみることもできる。当時の権力者たちの自己証明的な色合いが、『日本書紀』に記された先祖伝承等に含まれていると思う。

『日本書紀』成立時には不比等は存命であったにもかかわらず、五大夫の順番が3番目になっていることから、かなり健康を崩して第一線を退いていた可能性も見えてくる。この後、長屋王の変から律令国家日本(ヤマト)の崩壊に至るという、私の古代日本(ヤマト)観の裏付けともなる『日本書紀』の記述と考える。

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2018-05-24

『日本書紀』を読む(2)神武天皇と欠史八代

見附市学びの駅ふぁみりあでシリーズ開催されている「古代日本史講座」。
17期の『日本書紀』成立1300年!その謎を解くシリーズ。今回はその第4回「『日本書紀』を読む(2)神武天皇と欠史八代」と題して、『日本書紀』巻三~四に記された初代神武と九代開化に至る天皇の事績を問う。
※以下「私」と記述している部分は関根先生のことを指しています。

■プロローグ「神武天皇一代記」(動画)

まず、次の動画を見ていただきたい。

『古事記』や『日本書紀』に記されている神話や天皇記については様々な本で紹介されている。この動画も神武天皇について現代流に解釈して作成されている。神武が一般的にどのようにとらえられているか、わかりやすいので参考にしていただきたい。

『古事記』にも『日本書紀』にも「神武天皇」という名称の記載はなく、「神武天皇が即位された」という言い方も問題があるかもしれない。

神武天皇はどのような人物だったのだろう。『日本書紀』原文を読んでみても、戦いに自分の力で勝利したのは1回しかなく、ほとんどが誰かの助けを借りて切り抜けてきたエピソードとなっている。本人は何もしていないのではないかという印象だ。

実際はどうなのか、また歴史としてどういう風に解釈されてきたのかということを本日は探ってゆきたいと思う。

ただ、この動画の中で「八紘一宇」という言葉が紹介されていることについて触れておきたい。日本書紀に書かれているこの言葉は、全世界を一つの家族にするというような意味合いで、日本のアジア進出のスローガンにも使われ、精神的支柱となった経緯がある。明治以降の皇国史観に利用されてきた。現代でも(今日紹介する本にもあるが)この考えを取り上げるメディアは多いが、本講座はそういう立場はとらない。

■『古事記』『日本書紀』の位置づけ(復習)

【資料1】別冊宝島1671『古事記と日本書紀』(宝島社2010)
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このムックは最近紹介することの多い宝島社からのもの。表紙を見てもわかるように若者向けに編集されているが、内容はしっかりしており参考になる。
『日本書紀』成立期の時代背景についてはこのシリーズの初回に取り上げたが、このムックで復習しておく。

Q1 いつ頃、誰が作った?
『古事記』は、712年、稗田阿礼が話した内容を太安万侶がまとめたと書かれている。『日本書紀』は、舎人親王(天武天皇の息子)が720年に献上したと『続日本紀』に記されている。

Q2 古事記・日本書紀ではなにが違う?
資料に掲載した表にそれぞれの特徴がまとめてある。
『古事記』は3巻でまとめられており、そのうち1巻が神話で、ほぼ三分の1が神話に費やされている。『日本書紀』は全30巻となっており、そのうち2巻までが神話で、古事記に比べて比率が小さい。逆に言えば『古事記』はそうとう神話を重視していると言える。
『日本書紀』の神話に引き続く3巻が今日のテーマの神武天皇、4巻が欠史八代の部分に相当する。(「欠史」というのは名前の羅列となっており、事実が何も書かれていない状況であり、それが今日の課題となる。
文体については『古事記』は漢文を和文化したような文体で書かれているのに対し、『日本書紀』は漢文。(「純粋漢文」という言い方をされることもあるが、この表現はちょっと抵抗がある。)
そんな違いにより、『古事記』は国内向けに、『日本書紀』は海外向けに編纂されたという見方もできる。

Q3 どうやって作った?
『古事記』も『日本書紀』も『帝紀』や『旧辞』をもとにして編纂されている。『日本書紀』はそれに加え、さまざまな資料を参照している。それは原文を見てみると「一書曰」と書かれている部分が多数あることでわかり、天皇家の記録とは別の物も表している。また、中国や朝鮮の史書などの影響がみられるところも多い。

Q4 どんな構成になっている?
Q2の両者の違いで述べたように巻数と神話についての比率がかなり違う。
『日本書紀』については、續守言と薩弘恪というふたりの唐人が関わっている。

Q5 この頃はどんな時代?
私は、710年から平城遷都が始まり、715年に元明天皇から元正天皇へバトンタッチが行われた時に、律令国家「日本」(ヤマト)が内外に披露された、ととらえている。『古事記』はまさにこの時期に成立しており、もしかしたら平城京ではなく藤原京でできた可能性もある。『日本書紀』は律令国家「日本」(ヤマト)が披露された5年後に成立したが、その成り立ちには複雑な事情がありそうで、大きな課題となる。

■書紀に書かれた神武とその後の天皇の系譜を知るための参考

書紀に記されている歴代天皇の変遷を知りたいというときは、様々な書籍が出ているので、いくつか紹介する。

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安彦良和の『神武』はコミックで4巻にまとめられており、気軽に接することができる。私はこの方の絵が好きだ。

ただ、歴史研究として読み進めるなら何度か紹介している岩波版の「日本書紀」は必須。
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私もこの本はしっかり読んでゆきたいし、さらに古代史ビューア【麻呂】を併用・活用して客観的に読み込んでゆきたい。

■自然科学的な方法により客観的に神武を見る

【資料2】資料紹介 安本美典『神武東遷』(徳間文庫1988)

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ここに紹介する安本美典氏は古代史の著述が多いが、古代史の専門家ではなく基本的には心理学・統計学の学者。彼の手法は、記述された文章を数値化する。著書に数理歴史学に関するものもあり、歴史を自然科学的な手法で分析していくというのが安本氏のやり方。
この手法で調べていくと、日本だけでなく世界の王族・皇族を調べると、古代においては十数年がせいぜいで、何十年単位という統治期間を持った例はほとんどない。日本の神武から始まる天皇の統治期間も例外ではない。

神武天皇と欠史八代について安本氏は、「神武天皇」と呼ばれていたかは別として、欠史八代の天皇も含めて、少なくともモデルとなる人物は存在していたのではないかと推定している。
最近の傾向としては、安本氏を含めて、実在論を述べる人が増えてきている。
さらに安本氏は、その人物が活躍した年代に言及しており、西暦三世紀末(270年前後)頃ではないかと導き出している。
前回の講座で邪馬台国を取り上げた際に、卑弥呼が存在したとすればそれは西暦250年から270年くらいと考えられるとした。ということは邪馬台国の時代と神武天皇の時代はニアリーイコールとなる。神武天皇と卑弥呼が戦ったと論じている人もいる。

このように、神武天皇に相当する人物が270年頃に存在していたということを論理だてて導き出しているこの本は魅力的であり、安本氏を支持する人も多い。私も大きな影響を受けた一人。しかし、ここまで徹底しているにもかかわらず重要なことを見逃しているということもあり、最近は少し距離を置くようになった。とはいえ、重要な方なので、今回資料として紹介させていただく。

安本氏と大論争を繰り広げた古田武彦氏が神武天皇について書いたのがこの本。
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古田氏も実在論の立場をとっている。この本では神武のふるさとは日向ではなく筑紫だったと主張している。

■考古学の観点で見た神武天皇

【資料3】資料紹介 森浩一『日本神話の考古学』(朝日文庫1988)
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この資料で紹介しているのは森浩一氏の著書。現在私が日本の学者の中でもっとも注目している方である。考古学者だが、いろいろな分野の文献をあたったり、学際的にいろいろな分野の方と交流を持っておられる。この講座でも「相模の調邸」について「関東学」という著書を何回か紹介していておなじみだと思う。
この本も、専門の考古学の観点で日本神話を見ているのはもちろんだが、著者の持っている様々な視点から多くの問題を提起しており、神武天皇についても論じられている。神武天皇というのはいろいろな人物を神代まで持ち込んで投影したものととらえることが多いが、森氏はそれは継体天皇ではないかと考えている。その部分のくだりを資料に抜粋したので目を通していただきたい。
この本は割と手に入れやすく良い本なので、できれば1冊購入して読んでみていただきたい。

神武天皇のモデルにはいろいろな人が言われているが、参考までにこんな本もある。
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衛挺生氏の「神武天皇=徐福伝説の謎」という本では徐福がモデルと述べている。
神武天皇のモデルに関しては後ほど再度取り上げる。

■皇国史観に利用される神武天皇

【資料4】資料紹介 産経新聞取材班『神武天皇は確かに存在した』(産経新聞出版局2016)
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この本は現政権への提灯記事から生まれており、戦前の皇国史観のような時代錯誤の天皇論が展開されている。この手の話には神武天皇が引き合いに出されることが多い。
まったく同じ歴史が現れることはないが、同じパターンが繰り返されることはある。そんなことを考えるきっかけになればと思い、今回紹介した。

■神武天皇モデル説

【資料5】資料紹介 別冊宝島2345『ヤマト王権』(宝島社2015)
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さきほど森浩一氏の著書のところでお話ししたが、神武天皇は後世の人物をモデルにして作り上げたのではないかという論が多数ある。モデルとして取り上げられている主な人物を整理した表をこの資料に引用した。10代崇神、15代応神、16代仁徳、26台継体、40台天武、先ほど紹介した徐福などを含めると、時代背景も幅広い。共通して言えることは古代日本の英雄的な人物を神武に投影しているように見える。
現時点では結論は出ておらず、私としても今後の課題の一つととらえている。

■欠史八代と祖先伝承の意味

欠史八代とは日本書紀の第四巻に書かれている8人の天皇のこと。その記述内容は系譜を述べているだけで事績については何も書かれていないため「欠史」とされている。

【資料6】資料紹介 別冊宝島1671『古事記と日本書紀』(宝島社2010)
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この本には欠史八代に書かれている系譜を、問題点とともにわかりやすくまとめられており、資料にその部分を引用した。

ここで、古代史ビューア【麻呂】の検索機能を使って、この講座なりの分析をしてみたい。
日本書紀を読んでいるとどうも子孫の伝承にポイントがあるのではないかと気づく。そこで、目につくキーワードを拾い上げて、【麻呂】のカスタム検索に「祖先伝承」というグループを作り、語句を登録していった。これがその画面。
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「始祖」「遠祖」「等祖」などの語句で検索すると、「この神様はこういった人たちの祖先である」というような説明がたくさん書かれているのがわかる。
正規表現を使って「始祖」「遠祖」「等祖」「之祖也」の4つの語句をまとめて日本書紀を検索した結果が下の画面。右上の用例チャートの部分をみていただきたい。
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全部で96回の用例が確認できるが、ほとんどが書紀の前半4分の1のあたり、つまり神代巻や神武、欠史八代のあたりに用いられていることがわかる。
例えば「始祖」が一番最初に登場するのは巻02《神代下》9段の部分

號火闌降命。【是隼人等始祖也。

と書かれている。「號火闌降命」(ホノスソリノミコト)は「隼人」一族の始祖だとの記述。

これらの記述が存在する意図は何だろう。
古事記や日本書紀を作った大きな目的の一つとして、天皇の権威付けがある。人々を従わせるためである。しかし人心を掌握するためには天皇の権威を示すとともに、自分たち自身が天皇家の一族であるということを示してあげることが有効な手段だったのではないだろうか。

「歴史(社会の営み)を動かす人」は誰なのだろうか。現在の日本で考えると首相である安部さんだろうか。そうだと思う人も違うと思う人もいると思う。首相の他にも政財界のドンであったり、いろいろな意見があるはずだ。しかし天皇家が歴史を動かしているということはないのではないか。それは現代だけでなく古代からそうであると思える。もちろん太平洋戦争の敗戦受け入れのように天皇が大きな役割を果たしたこともある。しかし、大きな流れで見ると天皇家は権威の象徴であり、実権をもって社会を動かすことはなかったと言えるのではないか。
欠史八代周辺にちりばめられた祖先伝承には、そんな天皇家の在り方を成り立たせようとする意図が浮かび上がってくる。

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2018-05-10

『日本書紀』を読む(1)神々の物語と邪馬台国

見附市学びの駅ふぁみりあでシリーズ開催されている「古代日本史講座」。
17期の『日本書紀』成立1300年!その謎を解くシリーズ。今回はその第3回「『日本書紀』を読む(1)神々の物語と邪馬台国」と題して、『日本書紀』に描かれている神話の概観と邪馬台国をめぐるいくつかのアプローチやトピックスを紹介する。
※以下「私」と記述している部分は関根先生のことを指しています。

■日本神話の概観

日本神話は『古事記』と『日本書紀』が合わさった形で明治時代の頃から言われるようになった。そもそも「神話」という言葉は明治時代あたりから使われ始めており、古い日本語ではない。
したがって、語っていることはいつかわからないような日本の大昔の内容だが、「神話」という言葉自体も新しいし、現在知られている日本神話は本居宣長が『古事記』を読みやすくして出版してから広まった内容なので、200年ほどの歴史しかない。

見附市に名木野という地域があるが、ヤマタノオロチ伝説が伝わっていて、現在でも名木野小学校では「草薙龍」という児童劇を行っている。日本神話はそんな身近な存在にもなってきている。

【資料1】資料紹介 Aera Mook 『日本神話がわかる。』(朝日新聞社2001)
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冒頭に「日本神話はシンフォニーだ。」というコピーを大きく掲げているように、新鮮な視線で編集されている。世界には様々な神話が伝えられているが、本質的に似通っているところがあり日本神話も例外ではない、というような視線をもって編集されている。
目次を引用してあるが、代表的な7人の登場人物についてや文化・芸術などの各分野から見たエッセイなどでなかなかよくまとめられている。

しかし本講座では、こういう内容については取り上げない。また一般的な日本神話についても取り上げない。そういう本は沢山でている。本日もミニ古本市に関連図書を持ってきているので、興味のありそうなものを一冊読んでくれれば十分だと思う。

■『日本書紀』の原典をあたる

歴史の研究で一番大切なのは、研究資料の原典を自分自身の眼で読むこと。
原典をあたりたい、研究したいという場合は、前回紹介した岩波文庫版『日本書紀』がよいと思う。
本格的に研究するなら、写本(影印)などで内容確認する必要がある。

本日は、私が所蔵している古写本を紹介したい。実物も持参している。

【資料2】『日本書紀』 古写本 関根 聡所蔵
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江戸時代に写本されたものと思われる。本文の余白には自分で研究したと思われる書き込みがびっしりと書き込まれている。
以前、ネットで売りに出されているものを手に入れたのだが、京都の神社で見つかったものとのこと。書き込みに本居宣長などの名前が出てこないので、おそらく1600年代の半ばから江戸時代中期にかけてのものだと思われる。
資料に紹介したのは第一巻 第一段一書第二~六の部分であるが、その部分を古代史ビューア【麻呂】で見てみる。

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【麻呂】の基本機能として登録文字の強調表示がある。強調したい語句を複数登録できるが、さらにそのグループをひとまとまりとして複数のグループを作ることができ、簡単にグループを切り替えることができる
。さらに強調語句一覧の横にはテキスト中に該当する箇所の件数が表示される。
神代記のこの部分(巻第一の第一~第四段)に登場する神の名前をすべて強調表示に登録してみると面白いことがわかる。伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冊尊(イザナミ)を除いて、ほとんどの神が三段までに1回または2・3回しか登場せず、しかも四段以降には登場しない。三段までと四段以降の間には長い時間が存在することがわかる。

また、ここに登場する神様の中で「天御中主尊」(アメノミナカヌシ)は、古事記では一番最初に登場する神であり重要である。『日本書紀』では登場する神々の中に埋もれてはいるが「高天原」という言葉とともに出てくるように位置づけは古事記と一致している。
そのことより次のようなことが言える。『日本書紀』に書いてある「一書曰」(いっしょいわく)は「違う資料にはこのように書かれている」という意味だが、その中に『古事記』と同じ伝承が含まれている。つまり『日本書紀』の編纂時、『古事記』と同じ伝承を入れなければならなかった事情があった。『古事記』編纂の中心になった豪族グループの人たちが、『日本書紀』編纂時に政治的な力を持っていたということだと思う。
「一書曰」で始まる三段までの記述とイザナギ、イザナミの物語が始まる四段との間には、こんなところからも大きな時間的溝があることがうかがえる。

次に五段から八段までに登場する神の名前を登録した強調表示グループに切り替えてみる。
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こちらもたくさんの神様が登場するが、この五段から八段の部分にのみ登場し、それ以前にも以後にもほとんど登場しないことがわかる。つまり、ここでも時代が違うということが明らか。

以上より、『日本書紀』に書かれている神様のことを考えるとき、最初に多くの神々が出てくる時代、次にイザナギ・イザナミが活躍してから、さらに五段以降の神様たちというのはまた違った形で動き始めていることがわかる。スサノオなどはこの時に出てくる。
つまり、そういうことを無視して同系列に扱うべきではないのではないか。きちんと時代なり背景なりを踏まえて語るべきではないかと考える。

私は神話を扱うときも日本の歴史としていつ誰がどこで何をしたか(5W1H)ということを踏まえて語るべきだという立場をとっている。一般的な神話の取り上げ方をこの講座では扱わないのはそのような理由からである。

神話の部分については本日ここまでにするが、今後この講座では2020年の『日本書紀』成立1300年に向けて部分部分を掘り下げていく予定なのでまた取り上げることになると思う。そして、テレビや書籍など多くのメディアでも1300年に向けて『日本書紀』が取り上げられることが増えていくと思うので、それらと比較してもらえると面白いと思う。

■『日本書紀』と邪馬台国

邪馬台国があったのは3世紀頃であり、『古事記』や『日本書紀』の神話の最後あたりに近い時代である。「邪馬台国」「卑弥呼」は中国の『魏志倭人伝』に登場している。『日本書紀』の中に「邪馬台国」や「卑弥呼」が出てきてもよさそうだが、実際は登場してこない。しかし古代史ビューア【麻呂】で『日本書紀』を「魏志」で検索すると、神功皇后摂政三九年(己未239)条等に「魏志」が検出される。そこに記される明帝景初は、西暦の239年~243年。ちょうど邪馬台国の時代になる。『日本書紀』の述作者が『魏志』を読んでいたことは明らかで、「邪馬台国」や「卑弥呼」の記述も知っていたはずである。

では、なぜ「邪馬台国」「卑弥呼」は書かれなかったのか。
「邪馬台国」「卑弥呼」に対する態度が神話部分に対する態度に反映されているのではないか。つまり知っていてもあえて無視していると考えられる。歴史書(特に政治家が主導したもの)は自分の都合のいいように書き、都合の悪いものは書き表さない。(詳しくは後程触れる)

■『まぼろしの邪馬台国』

邪馬台国が日本でさかんに話されるようになったのは江戸時代からで、300年くらいの歴史があり、いろんな説が出ている。
本日はそのうちいくつかを取り上げるが、古田武彦説は取り上げない。その古田氏と大論争を繰り広げたのが安本美典氏で、以前は私もかなり影響を受けていた時期があったが、最近は距離を置くようになった。その二人による論争も今日は取り上げない。

本日取り上げるのはまず宮崎康平氏。

【資料3】資料紹介 宮崎康平『まぼろしの邪馬台国』第2部(講談社2008)
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九州の有明海に生まれ育ち、そこの鉄道会社を運営された経歴の持ち主であるが、失明され、奥様と一緒に邪馬台国研究の活動をされた。その姿は奥様役を吉永小百合が演じて10年ほど前に映画になったのでご存知の方も多いと思う。
この方の研究では邪馬台国は結果的に自分の故郷の有明地方にあったという結論にたどりついた。そもそも早稲田大学で津田左右吉に学んだこともあり、ただ単に古代史に没頭したということでなく、冷徹に物事を見つめる目も持っていた。ただ50年前の論調なので、邪馬台国論争は地域主義に陥る傾向があり、そういう要素も含んでいることは否めない。
しかし、古代史に生涯をささげた一人の人間としての存在は魅力的であり、文学を目指していたということもあり、読んでいて楽しい本。

■『邪馬壹国は新潟県であった!』

新潟で邪馬台国を語る上では外せないのが桐生源一氏。

【資料4】資料紹介 桐生源一『邪馬壹国は新潟県であった!』(玉源書店1985)
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『魏志倭人伝』の写本によっては「邪馬台国」ではなく「邪馬壹国」と書かれているものがあり、桐生氏は「邪馬壹国」説をとる。しかも「やまいつこく」と発音し、越後は古くから「え」と「い」の発音が逆になることが多く「やまえつこく」→「山越国」であったとする。

この本のP16に掲載されている「邪馬壹国比定地」の図を資料に引用した。これをみると山間部が多いことがわかる。また、フィリピンやスマトラを含めて各地にちらばっている。そういうところは「徐福」の伝説に似ている。このように各地で伝説的に語られるというのは、伝説の元になった種本の記述があり、それを自分の地域の話に持ってくるという形が多い。

桐生氏の主張は、邪馬壹国は栃尾にあって、そこの女王が卑弥呼である、ということだ。さらに、古代中国の百越の人々が世界中に渡り100以上の国を作り、栃尾の山越国もそのひとつと主張している。これは以前の講座で私が徐福の話をしたときに、日本人と百越との関わりについて述べた内容と通じるところがあり、一部共感するところがある。紀元前の日本には、秦から渡来した百越の女性を祖とする人々が各地に住んでいたと思う。

■松本清張の主張 邪馬台国の位置は? 1990年頃の学説と風潮

【資料5】資料紹介 松本清張『吉野ヶ里と邪馬台国』(NHK出版1993)
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さきほどの桐生氏の本で紹介されていた「邪馬壹国比定地」と同じ位置づけのまとめがこの松本清張氏の本に載っているので資料に引用した。各説について、簡潔にかつ具体的にまとめられており、作家、古代史研究家として松本氏の力量が感じられる。
松本氏の立場は、「邪馬台国は九州北半部のどこかであったらしい」としているが、「今後よほどの物的証拠があがらないかぎり、わかりようもない。」とも記している。

私もそう思う。そもそも「邪馬台国」については古代中国で魏の史家がそう言ったという記録であり、そんな名前の国は古代日本になかったと思う。自分を馬鹿にするような名前を自分で名乗ることはない。中国の人が勝手にそう呼んだ名前であり、『日本書紀』に載せなかったのは当然だと思う。ただ中国の人が「邪馬台国」と呼んだ国があったのは九州北半部のどこかだったという松本清張氏の主張には同感である。

■邪馬台国の謎を解くカギを握る『魏志』倭人伝

【資料6】資料紹介 別冊宝島2465『邪馬台国とはなにか』(宝島社2016)
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この資料では最近古代史関係でよい本を出している宝島社の2016年発行のムック『邪馬台国とはなにか』を紹介している。
この本の素晴らしいところは、邪馬台国のいろいろな説について、その人たちに直接書いてもらったりインタビューをしたりして紹介しているところ。

その中で武光誠氏の説を紹介したい。武満氏が言われるように邪馬台国のカギを握るのは『魏志』倭人伝である。
『魏志』倭人伝を研究する場合は岩波文庫版『魏志倭人伝』がよい。訳文や解説に加え、原文(印影)も掲載されているので、これ1冊あれば研究を始めることができる。魏志倭人伝については、このムックと岩波版があれば十分かもしれない。

魏志倭人伝について近年明らかになっていたことは、正確な記述といい加減な記述とごちゃまぜになっているということ。その部分を見極めないと研究の方向が誤ってしまう。
武光誠氏が書かれているのは、日本の女帝が魏の国に使いを送り、それに対して金印が贈られたのは事実だろうということ。つまり「邪馬台国」と呼ばれた国が日本にあったのは間違いないだろうし、女王がいたということも事実だろう、ということである。逆にいい加減に書かれていることは何かというと、国の名前や距離だという。したがって昔、距離の記述から邪馬台国やその他の国々の位置を探るというような論考が流行ったことがあるが、それらは意味がない---この本を読むとそう感じる。

要は歴史書であるので、本当のこともあれば嘘のことも書かれている。それらを見極めていくことが歴史研究であると私は考えている。この本でも武光誠氏を含めて複数の方がそういう見方をされている。
おもしろいのは、そのように魏志倭人伝に対するスタンスが同じにもかかわらず、結論が分かれているということ。武光氏は九州説をとっているが、他の方は近畿説となっている。

■よそ者「卑弥呼」がヤマト政権のもととなった?

最近武村公太郎という方が、地形から歴史を読み解くという見方を提案されている。

【資料7】資料紹介 武村公太郎の「地形から読み解く」日本史(宝島社2015)
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ここに引用した内容は、現在の奈良の中心部に巨大な湖があったとする説である。
藤原京と平城京の間はほとんど湖だったという。その根拠は、地形がそのようになっていることはもちろんだが、豪族たちがその周囲に分布していることからも言える。

もともと湖になったのは地殻変動などの災害により大阪湾に流れ込む部分が埋まって水がたまったものと考えられるし、その後湖が縮小していくのも災害により水が流出していったものと思われる。

奈良という土地がこういう場所だったという認識があるかないかで歴史の見方が変わる。邪馬台国が近畿にあったとすれば、いま橿原と呼ばれている付近で、奈良湖に面していた地域にあったと考えられる。湖周辺にいた豪族たちは、湖の縮小にともない土地を開墾していき、勢力を伸ばしていったのだろう。

卑弥呼の時代を探るにはこのような認識を踏まえるべきだと考える。

どうして奈良が古代の中枢になっていったかということについて、地理的な条件で考えてみたい。たとえば新潟県の上越市。武士の町である高田と漁師の町である直江津と一緒になって上越市ができたわけだが、現在の市役所のあるあたりは以前は誰も近寄らないような土地だった。しかし、両地区の中間点ということで現在は上越市でもっともにぎわっている地域になっている。同じようなことが三条市と燕市の間でも言える。新幹線や高速道路が両市の中間を拠点とし、現在ではたくさんの人たちが集まる場所になっている。

奈良はどうだろう。山に囲まれぱっとしないような土地条件だが、東からも西(九州)からも、日本海側からも行きやすい。倭国の大乱後、ばらばらだった日本がまとまっていく時期に、奈良湖の水が抜けていった。人為的に水を抜こうという動きがあったのかもしれない。交流の拠点が次第に繁栄し、ヤマト政権の元になっていったと思われる。

その初期段階ではよそ者が牛耳っており、その象徴が九州からやってきた卑弥呼と呼ばれる女帝だったのではないか。当時の有力な豪族は、近畿ではなく関東と九州にいたと私は考えている。
しかし、それは後世の政権にとっては認めたくない事実であり、それゆえ『日本書紀』に卑弥呼の存在を記載しなかったのではないだろうか。

■新潟にもあった倭国大乱時の痕跡

【資料8】資料紹介 『長岡・柏崎の歴史』(郷土出版社1998)
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本書の序文に「大宝二年(702)には、越中国から頚城・古志・魚沼・蒲原の四郡が越後国に編入されて、越後国ができあがった。この古代の古志郡に包括される範囲が、本書の対象とする区域である。」と記されている。古代の「倭国大乱」時に防御機能をもったムラが新潟平野の信濃川流域に集中するということを表した地図が掲載されており、資料に引用した。九州や瀬戸内・近畿に頻発したとされる倭国大乱であるが、北陸地方を経由して古代古志郡にも余波が伝わっていたことがわかる。

本書で広井造氏が書かれているが、この本を作った当時、このようなムラの遺跡は東山丘陵周辺で見つかっていることに触れ次のように結んでいる。
「信濃川の流域はムラを構えるには不便な反乱地帯だったが、西山丘陵は文化の受け入れ口として大きな役割を果たした日本海に近く土地も安定していたので、今後新しい弥生のムラが見つかる可能性が高い。」

本日の講座の最後にそれが実現した話題をお伝えする。
次のYouTubeの動画を見ていただきたい。



柏崎の西岩野というところで弥生時代の大型掘立柱建築物が発掘されたという話題。さらにその周囲にある墓の跡や勾玉やガラス玉などから、ここには巫女が埋葬されていたと考えられるという。

私自身は邪馬台国は九州にあったと感じているが、全国的に「日巫女」(ひみこ)と呼ばれる人が存在していたと考えている。古志地方にあったのが、今回見つかった西岩野遺跡と考えると面白い。
日本という国は女性が政治の補佐をするというしくみが、それこそ神話の時代からあったと考えているが、それを裏付けるものがこの近くで見つかったというのはうれしい。

【資料9】西岩野遺跡現地説明会 参加報告
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■本日のまとめ

古代中国の魏で「邪馬台国」と呼ばれた国は、九州にあったのではないかと思う。倭国大乱を治めるとき、各地の首長たちが古代奈良湖のほとり(纏向辺り)に集まって代表を決めた、その代表が「卑弥呼」だったのではないか。
つまり、「卑弥呼」はもともと九州の首長だったが、集まった奈良湖のほとりで連合政権的な代表に選ばれたということである。以降、そこに留まっていたのか、九州に帰ったのかは判断できない。
『日本書紀』は、「卑弥呼」を一人の人物として書くのではなく、何人かの人物として誤魔化して書いているという気がする。

■磤馭慮(オノゴロ)島地図を復元

【資料10】越後通信(2012年6月5日号)より「淤能碁呂嶋図」

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『古事記』では「淤能碁呂嶋」、『日本書紀』では「磤馭慮島」と記されている神代の日本。その地図を復元したのがこの資料。
古代日本において方位の基準は南であり、南を上に地図を描くなど、私の研究成果がいろいろと反映されている。今後、神話の時代や古代日本を考察する際、是非活用していただきたい。

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2018-04-27

『日本書紀』の成立と編纂者の謎

見附市学びの駅ふぁみりあでシリーズ開催されている「古代日本史講座」。
全17期の『日本書紀』成立1300年!その謎を解くシリーズ。今回はその第2回「『日本書紀』の成立と編纂者の謎」と題して、『日本書紀』の編纂に関わった人物を追っていく。
※以下「私」と記述している部分は関根先生のことを指しています。

■日本書紀を「読む」(資料紹介)

日本書紀を読もうと思うときに、そこから取り出した日本神話を読むことは多いかもしれないが、日本書紀そのものを読む人は少ないと思う。以前から週刊で刊行される歴史シリーズなどで分かりやすく取り上げられてきたが、最近は単発のムックとしても日本書紀が取り上げられることが多い。
そのうち、週刊タイプのもので分かりやすい例を資料1で紹介する。

 【資料1】資料紹介 ビジュアル日本の歴史83 『古事記と日本書紀』(デアゴスティーニ2001)

Fig01
概要として
・舎人親王が元正天皇に献上した
・全30巻から構成されている
・天武天皇の時代から編纂が開始されたらしい
・神代から持統天皇まで書かれている
というようなことが簡潔に書かれている。

『日本書紀』は、いろいろ問題はあるにせよ、この時代の史料として第一級のものであることは間違いない。『日本書紀』なくして日本の歴史は語れないほどの重要な資料であることは間違いない。

日本書紀を研究する場合、日本書紀で古代史を研究することと、日本書紀そのものを研究することは別問題であり、まずは日本書紀そのものを研究する必要があると説いたのは坂本太郎氏で、古代史研究家に少なからず影響を与えた。私も例外ではない。しかし、戦前の歴史観を引きずっている部分が多いので、資料の分析はしっかりしているが結論がやや皇国史観に偏っている。

 【資料2】資料紹介 宇治谷孟『全現代語訳 日本書紀』(講談社学術文庫1988)
Fig02
この宇治谷孟氏の「全現代語訳 日本書紀」は、初めて現代語訳で『日本書紀』を書いた本として画期的だった。読みやすく、私もこの20年間かなりお世話になってきた。
しかし、あらためて「あとがき」を読んでみると、そこに記された署名の由来や編纂の経緯に関する解説は不十分、不正確であり、歴史的事実とは考え難い。書名の『日本書紀』は誤りであり本来は『日本紀』と呼ぶべきなど古い誤った説を断定している。本文の記載についても全面的に信頼すべきかどうか疑わしく、今後は参照の頻度がかなり落ちると思う。

 【資料3】資料紹介 岩波文庫版『日本書紀』全5巻(岩波書店1994-1995)
Fig03
この岩波文庫版『日本書紀』が研究目的としては、入手しやすさ、読みやすさもよく、もちろん信頼性も高いのでお勧めである。書名についても『日本書紀』『日本紀』どちらが正しいのかは決着がついていない、ときちんと解説している。
『日本書紀』の成立についても、続日本紀で「奏じた」と記されている舎人親王の他に、編集の実務に従った紀清人、三宅藤麻呂の三名が知られるほかは明らかでない、ときちんと書いている。

■音韻分析で述作者を解明する

 【資料4】日本書紀の音韻分析が、古代史の謎を解明する。
Fig04
この資料は森博達(ひろみち)氏の本の紹介で、過去にもしばしば取り上げている。しかし、今回は新しい視点を盛り込んでいる。
森氏は音韻分析で日本書紀をα群とβ群に分けた。α群の特徴は、正確な漢文で記述されているが日常生活で日本人が使うであろう言葉や事実の表現などに誤りが見られる。また、β群はそれとは逆に、日常の言葉や事実の記載は正しいが漢文の記述が日本式であったりする。α群は唐の人間が書いたものでありβ群は日本人が書いたものと推定できる。
このことより、7世紀末から8世紀初頭にかけて、續守言と薩弘恪というふたりの唐人によって述作され、その後、山田史御形や紀朝臣清人が残りを述作、同時に三宅臣藤麻呂が潤色を加えて完成されたと結論付けている。
森氏は学生の頃より図書館の情報カードによる絞り込みを熱心に活用していたという。それは古代史ビューア【麻呂】による分析と同じ方向を進む行為であり、できればこのソフトを使ってみていただきたいと思っている。

ただし、森氏は『日本書紀』編纂は不比等が主導して進めたと主張しているが、以下の事項により私は石上麻呂が主導したと推定する。
・元明-元正と天智系の女帝を擁立したのは、時の最高権力者左大臣石上麻呂であった。
・史書編纂の基盤となった『儀鳳暦』の採用は麻呂の事績と一致する。
・日本初の辞書『新字』編纂者境部連石積は麻呂の秘められた前身とかかわりがあったと推定される。
このへんを次の史料で詳しく見てみる。

■『日本書紀』編纂の主導者は左大臣石上麻呂だった

 【資料5】『日本書紀』編纂の主導者も、左大臣 石上麻呂だったが...。
Fig05
この資料は石上麻呂の事績と日本書紀撰上を含む主な出来事を併記した年表である。
まず注目するのは676年の新羅大使。敗戦の将大友皇子に最後まで付き添った人物であるにもかかわらず、わずか4年後に大乙上という上から数えて19番目という下級官僚の身で新羅大使になり新羅に渡る。唐と戦争していた新羅はこの期間に唐に勝利するという重要な時期にあたる。

古代日本においては太陰暦が使われていたが、690年ころから儀鳳暦(ぎほうれき)が採用され始めている。また『日本書紀』では基本は儀鳳暦に則って編纂されている。

暦については『暦ものがたり』(岡田芳朗)が暦が社会にどういうかかわりを持っているかということが詳しく書かれている。その中でポイントになるところは、儀鳳暦については持統天皇が文武天皇のために採用したものと論じていることである。文武天皇が即位するときに暦も一緒に発表し、混乱していた暦を儀鳳暦に統一するとしたことにより、歴史を背負って文武天皇が即位するという風に演出した。つまり暦の採用は政治的なものだったと言える。そういう論を見ても石上麻呂は持統天皇に引っ張り上げられた人なのだと強く感じる。

■『儀鳳暦』伝来と石上麻呂

 【資料6】資料紹介 蔡毅『日本における中国暦法』
Fig06
その儀鳳暦がどうして儀鳳暦と命名されたかという謎を追ったのがこの資料で紹介している蔡毅氏の『日本における中国暦法』。
日本の学界ではもともと唐で使われていた『麟徳暦』が唐の儀鳳年間に新羅に伝わったので『儀鳳暦』と称し、日本は新羅からそれをもたらしたので『儀鳳暦』の名を襲用したとするのが定説となっている。

唐の儀鳳年間は、西暦676年から679年にあたる。先ほど話したように、石上麻呂は天武五年(676)10月に遣新羅大使として新羅に渡り、翌年(677)に帰国している。
『日本書紀』には、麻呂と共に小使として「山背直百足」の名も記されている。百足はこのあと登場することはなくなるが、物部連麻呂は左大臣石上麻呂として政権トップに上り詰めた人物。麻呂が当時唐で使われていた中国暦を日本に持ち帰り、『儀鳳暦』と名付けたという可能性がもある。

蔡毅氏はさらに、653年に第二回目の遣唐使に留学僧として唐に渡り25年間にわたって律学の勉強に励み、678年に帰国した道光について言及している。678年に道光が帰国したというのは『三国仏法伝通縁起』の記録らしい。入手出来たら確認したいが、これが事実だとすると石上麻呂との接点が見えてくる。
以前から私は、石上麻呂は第二回遣唐使(653)の留学僧だったと推定している。道光はその時の同僚で、天武六年(677)麻呂と共に帰国したのだろう。
道光が新羅にいた事実はいまのところ確認できない。蔡毅氏が指摘しているように、遣唐使以外にも日中の交流があったとも考えられる。この時、密かに麻呂が唐に渡り、道光を連れ帰った可能性もある。

そもそも麻呂が壬申の乱で敵軍の将であったにもかかわらず、わずか4年で新羅大使に抜擢されたのは、なぜか?当時交流の途絶えていた唐の情勢を探るという密命があったのではないか。
麻呂は、道光と同じく、第二回遣唐使の学僧だった。しかも伊吉の言にあるように、冤罪によって三千里の外(敦煌)に流され、博得の弁明によって許された人物(倭種韓智興)だった。その智興は、斉明元年(655)中臣鎌足の長男貞恵と共に、新羅経由で帰国した。その経歴が、大使抜擢の理由と考えられる。

■古代史ビューア【麻呂】でさぐる『日本書紀』の成立と編纂者の謎

『日本書紀』が具体的にその名前と共に記されているのは続日本紀の中で養老四年に

一品舍人親王奉勅。修日本紀。至是功成奏上。紀卅卷系圖一卷。

と記されている部分のみである。つまり舎人親王が文書30巻と系図1巻を奏上した、という事実だけが記されているにとどまる。
また、『日本書紀』という書名は出てこないが、6年前の和銅七年に

詔從六位上紀朝臣清人。正八位下三宅臣藤麻呂。令撰國史。

と記されており、国史の編纂を命じている。

しかし、これらの人物以外にも直接または間接的に日本書紀編纂に関わった人物が数多くいる。
【麻呂】のカスタム検索に日本書紀成立に関わったであろう人物を登録した。
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・681年の川嶋皇子から平群臣子首までの12名は天武天皇が記録を命じた時に登場する人物
・續守言と薩弘恪は森博達氏が論ずるα群の執筆を行ったとみられる2名
・山田史御方は同じくβ群の執筆を行ったとみられる人物
・714年の紀朝臣清人と三宅臣藤麻呂は国史の編纂を命じられたと記されている2名
・舎人親王は天皇に日本書紀を撰上した人物
・末尾の書直智徳は最近注目している人物

こういう風に個々の人物を検索して追っていくと、いくつかのキーワードで結ばれていることに気づく。それが一番上に登録してある「日本書紀編纂関連記事」である。正規表現では以下のようになる。

帝妃|新字|儀鳳暦|音博士|學問新羅|撰國史|日本紀|文章

縦棒"|"は正規表現ではor(または)の働きをするので、この正規表現を検索することにより、上記人物たちが登場し、これらのキーワードにより結び付いていることがわかる。
この中で「新字」がまず重要。「新字」とは日本初の辞書。正式な国史を書くのに使用する文字や語句の基準は大切であったと思うが、682年からこの「新字」が使われ始めている。この辞書を作った境部連石積も日本書紀の編纂に関わった人物として注目されてよい。また、さきほどの「儀鳳暦」の渡来がこの時期なのは興味深い。

このキーワード群で検索すると日本書紀成立に関わる部分のみにヒットすることに気が付く。その他の関連部分にはこれらのキーワードは登場しないのだ。これはとても興味深い。

なぜこのような構成になってしまったのかということを類推すると、当時歴史書を編纂する手順としては各人物や事績などを木簡に書き記してゆき、それを編集していったからだと思われる。結果として、キーワードで検索していくと1300年前の作業を追体験するように浮かび上がってくるということだと思う。このキーワードを見つけることができれば、歴史が浮かび上がってくることになる。

■『日本書紀』編纂ゆかりの人物を【麻呂】の検索で辿る

多くの研究者が述べているように『日本書紀』は未完と思われる。各巻によって書き方がばらばらで、誰かがきちんと取り仕切ってきちんと書いたとは思えない形になっている。

例えば「山田史御方」という人物が記載される場合「山田史」は同じだが、「御形」「御方」「三方」と3通りの書き方になってしまっている。これらは意図的に一部の語句、この場合「山田史」で検索しなおして見つけることができる。ネットで検索して確認するのも有効だ。

もう一例を出すと「中臣連大嶋」という人物。
まず検索すると681年に「帝妃」に関わっていることがわかる。「帝妃」とは後に「国史」と言われるもととなるもの。
その後ろを検索すると同じく681年に石上麻呂等と一緒に表彰されている。ここでも麻呂との接点が見つかる。
以上3回の記載しか見つからないが、ネットで「中臣連大嶋」を調べてみると「中臣朝臣」「藤原朝臣」と姓を変えているとともに、「中臣渠毎の子」という記述も見つかる。
そこで『日本書紀』を『中臣渠毎』で検索すると1件の記載が見つかる。

安達。【安達。中臣渠毎連之子。】

これは653年の第二回遣唐使に参加していたメンバーとして記載されている。
このように、国史編纂に関連する人物を探っていくと必ず石上麻呂との接点があることに驚いてしまう。それと同時に白雉四年653年の第二回遣唐使は極めて重要な遣唐使だったということを改めて知ることができる。今までこの重要性を指摘していた研究者はいなかったと思う。
さらにここに登場する『安達』という名前は検索してもこの場所にしか登場しない。井之上麻呂がらみで登場する語句や人物は「その場所にしか登場しない」というパターンが実に多く意味深い。
これらの名称を正規表現として一連のキーワード化してあらためて検索するとこの人物の事績をたどることができる。
681年に大極殿で帝妃の編纂を命じられるが、多くのメンバーの中で

大嶋。子首親執筆以録焉。

と記されており、大嶋と子首の2名は自ら筆をもって執筆したと記されている。この2名は重要な役割だったことがわかる。
次に登場するのが先ほども見た通り、石上麻呂や粟田眞人と一緒に表彰されている。653年の遣唐使では学僧として粟田眞人と一緒だったことが記載されていたが、石上麻呂もそこに一緒にいたという推論は俄然真実味を帯びてくる。
この後683年に判官になる。
685年には褒美を賜っているが、『新字』の編纂者である境部宿祢石積と並んでいるのが興味深い。
686年の登場では石上政権のNo.3である大伴安麻呂と並んでいる。大嶋という人物は石上政権で大きな役割を担っていたメンバーの一人だったと思われる。
690年にはまた石上麻呂と並んで記載されている。
しかし、691年に登場後は日本書紀にも続日本紀にも記載はない。これだけ活躍した人物なのに死亡記事がないということは、この後何か問題があったのかもしれない。このあたりは、今後さらに分析を進めたい。

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2018-04-12

『日本書紀』成立期の時代背景

見附市学びの駅ふぁみりあでシリーズ開催されている「古代日本史講座」。
4月から新しいシリーズが始まった。

『日本書紀』成立1300年!その謎を解く

日本初の国史『日本書紀』が編纂されたのは、養老四年、西暦だと720年。ということは、2年後にあたる2020年は、東京オリンピックばかりではなく、日本書紀成立1300年という節目の年でもある。
この講座としても、先取りして、今年まず10回に渡って『日本書紀』を取り上げる。

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今回はその第1回「『日本書紀』成立期の時代背景」と題して、日本書紀が成立した720年前後の政治・経済・文化など、その時代背景を俯瞰する。

時期的には、関根先生の中心テーマである「石上麻呂政権」が確立され、そして麻呂と不比等の没後はしだいに崩壊していく、そんな時期にあたる。したがって、今まで講座で取り上げられたテーマの総まとめ的な内容となった。

■『日本書紀』について

今から1300年前の720年に完成したとされている歴史書。その8年前の712年に古事記ができている。同じ時期に完成したこの両書の関係性についてははっきりとした結論は出ていない。ただ、古事記と違って、日本書紀は正式な国史として編纂された。国史としては、『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後記』~と続いていくが、『日本書紀』が編纂された時代のことを記録したのが『続日本紀』となる。

『日本書紀』を読むときは、まずは岩波文庫版の「日本書紀」が定番で、原文と訓読、解説が並行して書かれている。現代語訳としては講談社学術文庫の「日本書紀」。この2冊が一番手に入りやすくて読みやすい。
研究対象として原典にあたるときは、例えばここにあるような平安時代に書かれた巻物の日本書紀、影印と言われるやはり平安時代に書かれた本を写真製版したものが手に入る。あるいは江戸時代に木版で刷られた日本書紀などもあり、ここに一部持ってきた。見てもらうとわかるように、写した人が書いた注意書きなども見ることができ、非常に興味を掻き立てる。

 

■『日本書紀』が編纂された時代の天皇

 【資料1】元明天皇と元正天皇
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『古事記』成立期(712)に在位していたのが、元明天皇という女帝。
同時期に『日本書紀』の編纂も進められており、その『日本書紀』が成立(720)した時、在位していたのは元明天皇の娘・元正天皇という未婚の女帝だった。
『古事記』『日本書紀』という古代日本を代表する史書が成立した時、在位していたのが母子二人の女帝だったのは偶然ではない。
特に元正天皇は、律令国家「日本」建国(715)にあたり、権威の象徴として擁立された女帝だった。即位時には何ら政治的権力を持たず、国家的為政は律令制度の元、全国から集められた優秀な中央官僚が担っていた。
 

■『日本書紀』が編纂された時代の政権

その時代に政権を担ったのが石上麻呂と藤原不比等。708年に麻呂が政権トップの左大臣になり、同僚の右大臣不比等とともに活躍した。

【資料2】石上麻呂と藤原不比等の事績と冠位変遷
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この時代に政権のトップにいた石上麻呂藤原不比等の事績と冠位を『日本書紀』『続日本紀』両書の記述から拾い上げてまとめたのがこの資料。
石上麻呂は冠位としては上から数えて19番目の大乙上から始まり、最後はトップの左大臣にまで上り詰めていく。これは会社で言うと平社員から社長、戦国時代を征した秀吉よりもすごいことかもしれない。こういう出世が具体的に描かれているのにまったく評価されていないというのが日本の歴史界の現状だが、私(関根先生)は非常に評価しており、日本の基礎を作り上げた人と思っている。
一方、石上麻呂が自分の後継者として期待をもって育て上げ、その期待に応えて成長していったのが藤原不比等と考えられる。非常にいい関係のパートナーだったというのが私の不比等像である。

■「高天原」に隠された謎

その、政権ツートップである石上麻呂と藤原不比等の冠位変遷を重ねてみたのが次の資料。

【資料3】石上麻呂と藤原不比等
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石上麻呂が出世すると不比等が追いかけるというパターンが明らかである。不比等は、ずっと麻呂に付き従うように出世している。常識的に考えれば上司が出世するので部下が引っ張られると解釈するべきだろう。部下が一貫して上司を押し上げていくということは考えられない。
不比等が麻呂の階位を越えるのは、薨去後に追位された時である。不比等の立場から見ると、一度も麻呂を超えようとしなかったというのが事実である。

ここで「高天原」という言葉に注目してみたい。
『古事記』上巻冒頭の一文中
に「天」という字が3回現れている。
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①天地初發之時:これは当時周知されていた「天地」
③天之御中主神:これは神様の名前
注目すべきは
②高天原
3回のうちこの「天」にだけ訓注が施してある。
「高下天云阿麻下效此」→「高天原」の「天」は「阿麻」と云い、以下これにならう
一般的には読みを説明していると言われている。

1115年に源俊頼によって書かれた「歌論」という和歌の手法に関する本がある。その中に「異名」という項があり、多くの物の名に異名があり和歌を詠むにはそれらを知っておくことが必要と述べられ、いろいろな言葉がリストアップされている。そのリストの最初に書かれている言葉が「天」であり、「なかとみ といふ」と説明が書かれている。つ
まり「天」というのは中臣氏を表しているというのだ。

「高天原」の「天」が中臣を表すとすれば、「天」を除いた「高原」は何を意味するのだろうか。
古代史ビューア【麻呂】で「高原」を検索してみると、古事記、日本書紀、続日本紀、出雲風土記、懐風藻、萬葉集など、この時代の主だった文献の中で、『続日本紀』に1回だけ現れることがわかる。その部分を見てみよう。
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韓國連源(からくにのむらじみなもと)らが、先祖塩兒の父祖(石上朝臣麻呂)が遣わされた国名をもって名付けられた「韓國連」を、時代にそぐわないとして居住地である「高原」を連名にしたいと申し出て認められた、というのだ。
これでわかるのは8世紀後半の日本には「高原」という地名があったこと、そしてそこには物部大連の子孫が住んでいたということである。つまり
「高原」というのは物部を意味すると言える。

以上より、
「高天原」というのは「高原」(物部)+「天」(中臣)が合わさった言葉だと言うことができる。

さらにこの改姓の請願中に出てくる「物部大連」から「大連」(おおむらじ)に着目して続日本紀を検索すると3件該当することがわかる。その内、この請願部分に2回出てくるので、残る1回の部分を見てみると、石上麻呂が亡くなったことの記述部分(717年)である。石上麻呂も物部大連の子孫であることがわかる。

(インターネット検索と同じように、古代文献の語句検索も、いろいろなつながりや発見を見せてくれるのは素晴らしいことと思う。)

以上、
「高天原」は麻呂不比等政権を意味するというのがこの言葉に隠された謎の答えに至るが、さらにその背景を知ることができる一つの検証をしてみよう。
日本書紀を「高天原」で検索すると7回使われているが、その内5回は神代巻で使われているが、残り2回は最終巻である30巻まで飛んで、持統天皇のおくり名(諡号)「高天原廣野姫天皇」(たかあまはらひろのひめてんのう)として使われている。持統天皇は石上麻呂と藤原不比等を政界に引き上げた人である。
つまり、
「高天原」という言葉は、持統天皇の諡号として作られた造語である、というのが結論。そして、それを神話の中に取り込んでいったと考えられる。

■これまでの石上麻呂に対する評価

古代日本史について、戦前は皇国史観が強く天皇中心主義の傾向だった。戦後は民主史観が入り天皇に敵対する勢力なども評価を受けるようになってきた。それに決定的な役割を果たした人物が上山春平と梅原猛。お二人はタッグを組んで「隠れた巨人」として藤原不比等を引っ張り上げ過大評価した。

【資料4】石上麻呂は平城遷都に反対、政治的な死刑宣告を受けた?
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その代表的な記述部分をこの資料で紹介している。
続日本紀での710年の、記述では

始遷都于平城。以左大臣正二位石上朝臣麻呂爲留守

つまり、麻呂は藤原京に留守役で残ったと書いてある。そして没するまで麻呂に関する記事は現れない、ということから政治の第一線を退いた、政治的には死の宣告を受けたというのが彼らの主張である。
哲学者の二人の論評に歴史学者も追随してしまい、今日に至るまで不比等の過大評価、麻呂の歴史的功績の見誤りが定着してしまっている。

しかし「留守」という言葉は本来、中国で皇帝が都を離れたときに皇帝に代って執務する人のことを表し、重責である。決して評価が下がる状態ではなかったはずだ。

■石上麻呂が遷都時も活躍していた証拠が見つかる

【資料5】多胡碑の「羊」は、多胡建郡の申請者名だった。
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群馬県で発見された多胡碑の中に「石上尊」「藤原尊」という字が刻まれている。また「羊」という字もありいろいろな論議があったが、申請者名だということを平川南さんという方が明らかにした。そのポイントとなったのが長岡市八幡林官衛遺跡から出土した申請書としての木簡だった。そこには「長官 尊」と書かれており、敬称としての「尊」が常用されていたことが明らかになった。したがって、多胡碑に「石上尊」「藤原尊」と書かれているのは「羊」という人物が多胡建郡の申請を行って認められたことを表す碑だと考えられる。
当時の習わしでは建郡のような大きな申請の了解を伝える時、申請した人に口頭で結果を伝えた。「羊」という人物は申請者であり、それを聞き取って文章化し碑にしたものが多胡碑なのである。
その
口頭通達の場には、石上麻呂と藤原不比等が列席していたので「尊」という敬称を付けて名前を列挙したと考えられるわけである。
したがって多胡碑の碑文は、平城遷都の最中、石上麻呂が左大臣として執務していた動かぬ証拠と言える。
上村春平と梅原猛の石上麻呂説は、まったくの誤りである。

■平城遷都

以前は710年に平城遷都が終わったと言われてきた。
続日本紀には「始遷都于平城」と記されており、710年に遷都を始めたと考える方が普通ではないのかという疑問がわく。

最近、平城京大極殿跡から発見された木簡が710年遷都終了説の誤りを明確にしてくれた。大極殿の土台の下から714年に書かれた木簡が発見されたのだ。つまり714年の時点で大極殿の土台はまだできていなかったということ。平城京大極殿が藤原京から移設されたことは以前から知られている。今回の発見でその時期が714年の後半から715年くらいの時期であることが分かった。
つまり710年時点で平城遷都は終わっていなかったということであり、続日本紀の記述の通り710年から始まったのである。
なお715年に即位した元正天皇の即位式は平城京に移設された大極殿で行われている。

整理すると
708年 元明天皇が即位後に平城遷都が決められる
710年 平城遷都が始まる
715年 元正天皇が即位(平城京大極殿にて)
この時に新しい都ができたということを国内外に宣言したことになり、平城遷都が終わったのはこの715年とみるべきだ。

■平城京の素顔

【資料6】平城京は、石上麻呂と東国人たちが造った!

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この資料に掲載している平城京地図は私(関根先生)が作成したもの。当時の様子を表す特徴的な事項を盛り込んでいる。
まず、奈良といえば東大寺、興福寺、唐招提寺などお寺がたくさんあるイメージだが、平城遷都時には藤原京から平城京に移ったお寺はひとつもなかった。つまり政教分離が図られており、平城京は律令国家の行政都市として誕生した。
この地図は上が南を向いている。古代東南アジアでは方位の基準が南だった。したがって、南を向くと左は東方向になり、「左」という字は辞書を見ても書いてあるが東を意味し、これは非常に大事な知識となる。ちなみに佐藤の「佐」は東国人という意味を持つので、「佐藤」は東国人の藤原さんに由来するという想像もできる。
奈良市にはその「佐」の字を冠した佐紀町という町名が存在する。位置的には大極殿の周囲にあたる。漢字「紀」には、治めるという語義がある。京域を横切る川が、佐保川というのも興味深い。この資料に記しているように平城京は東国人(佐)が作り上げたということの表れととらえられる。

■女帝時代

上の資料の左上に武則天を題材にした映画のタイトルイメージを載せてある。日本書紀が成立した時代は最初に見たように、元明天皇、元正天皇と女帝が2代続いた時代だった。そのことに大きく影響を与えたのが中国で690年から705年まで即位して「周」という国を名乗った中国で唯一の女帝武則天である。(即位するまでは則天武后と呼ばれていた)
在位時期は持統天皇とかなり重なっており、強烈な個性を持った女帝だったこともあり、日本にも大きな影響を与えたと考えられる。

【資料7】則天武后
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■石上麻呂が平城京、律令国家を実現した

「日本」という国がいつできたかははっきりしない。「日本」という言葉が使われだしたのは天武天皇の時代らしい。、しかし国名として実際に使われたのは、大宝律令ができ、平城京という行政機能を持った首都が完成、元正天皇が擁立された霊亀元年(715)であると考える。
そして、それを牽引したのは左大臣石上麻呂である。

【資料8】律令国家「日本」建国の父、左大臣 石上麻呂
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石上麻呂が左大臣として平城京で活動したとすれば当然屋敷もあったはずである。それが「長屋王邸」として誤認された左京三条二坊の館跡であると考える。
この発掘により出土した多くの木簡の中に「少書吏」「大書吏」などの表記が見つかっている。これはここにあった邸の主は二品以上の皇族ないし二位以上の貴族であることを物語る。当時の該当者としては共に正二位の左大臣石上麻呂と右大臣藤原不比等しかいない。不比等邸はこの時期他所にあるので、麻呂の館とみるべきである。

地元出身の人物ではないと、その地域で評価されないということがしばしば見られる。明治時代、見附・栃尾地域出身で関西財界の礎を築いた外山脩造という人がいた。しかし関西で評価が高いとは言えない。新潟でもその名を知る人は少ない。地元では何もせず、顕彰する人がいなかったからだ。
東国出身の石上麻呂が、忘れられたのもそういったものかもしれない。しかも1300年前の人物。忘れ去られても不思議ではない。

石上麻呂と不比等は理想主義者だったのではないか。日本をまとめるためには権威の象徴としての天皇をおく必要がある。その際に武則天を参考にし、女帝を置いたのではないか。元正天皇は石上麻呂が擁立した女帝だと思う。天皇は権威の象徴とし、権力は持たせない。一般庶民の帰属意識を中央に向かせ従わせるには天皇という権威が必要だが、政治的権力はその天皇に持たせてはいけない。政治は律令制度のもと、健全な理念を持った官僚が行う。そういう気持ちで未婚の女帝を立て、新たな斎宮制度まで作った。
元正天皇の次には井上内親王を据えるようにしておいたが、麻呂の死後、わずが3年で後継者の不比等も亡くなり、反動勢力に担がれた聖武天皇が即位してしまった。

■平城京と相模国のつながり

萬葉集には防人や東歌など東国人の歌がたくさん収録されている。大伴家持が相模守を務めたことを考えれば自然なことである。それどころか、防人歌、東歌を集めたことが萬葉集を作るきっかけだったとさえ思われる。家持の歌は驚くほど東歌や防人歌と同じ手法を取り入れている。
家持は石上政権のナンバー3大伴安麻呂の孫。歴代の相模守には麻呂や不比等の配下をはじめ、家持の兄貴分として二人の孫(藤原良嗣と石上宅嗣)がいた。古代の相模は、石上政権の直轄地という様相を呈している。

そういう相模国と平城京のつながりを示す痕跡を評価したのが森浩一さん。「関東学をひらく」という本で相模国の調邸を論じている。

【資料9】相模国の調邸は、左大臣石上麻呂の経済的基盤だった。
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調邸とは交易所のようなところで、運河に面した場所に設置されていた。特筆すべきは相模国の調邸以外、例えば武蔵国や上野国などの調邸があるかと思えば、今のところ見つかっていない。相模国の調邸だけしか確認されていないのだ。

平城京を作るときに建物の瓦も大量に作る。瓦を造るとき型と粘土の間に敷く瓦布(かわらふ)も大量に必要となる。その瓦布の特産地が関東であり、仕入れを一手に抑えていたのが相模国の調邸だったと考えられる。

つまり石上政権を支える大きな経済的基盤だったのが相模国の調邸だった。少なくとも相模国以外の調邸が見つからない現状においてはそう考えて間違いないだろう。

資料の左下に藤沢市鵠沼の地図を載せている。現在でも小字に「石上」「藤原」という名前が残っているのは偶然とは考えられない。

■古代日本が新羅から受けた影響

石上麻呂が日本書紀に初登場するのは壬申の乱(672)で、敗戦の将、大友皇子に最後まで付き添った人物として記されている。
次に登場するのは4年後の676年、大乙上(上から数えて19番目の階位)という下級官僚として新羅大使となり、半年間ほど新羅に渡る。その頃の新羅は羅唐戦争の最中、しかも滞在している間に新羅が唐に勝利するというエポックな時期だった。なぜ敵軍の将だった麻呂が、低い階位で遣新羅大使となったのだろう?そこに石上麻呂の出自を探る糸口がある。

【資料10】石上麻呂は、元暁の思想を昇華、平城遷都を実行し日本建国を実現したが…。
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この当時、新羅では元暁という僧に注目が集まっており、特に花郎集団などに支持されていた。元暁が説いていたのは「和」という思想だったが、これに触れた石上麻呂もかなり日本に持ち帰ったと思われる。ちなみに左大臣になった708年には「和銅」という元号をつけるが、「和は金に同じ」と読める元号は元暁の思想そのものではないか。石上麻呂は元暁の「和」の思想を日本流にアレンジして平城遷都や日本建国に役立てたのではないか。
しかし、麻呂、不比等の死後、元正天皇や聖武天皇をあやつる反動勢力はそれを崩壊させていった。聖武天皇の大仏建立はその最たるもの。律令制度で入ってくる収入を天皇や貴族たちが奪い合い、ムダ使いしていくことから律令制度の崩壊が始まった。

■石上政権の陣容

これは続日本紀の708年3月13日の部分。石上麻呂が左大臣に就任するとともにその陣容が列挙されている。
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そして、それをリストに整理したのが次の資料。

【資料11】石上麻呂は律令制度を構築、日本建国を果たした。
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この内、国史の任命順上位15国を赤で塗り潰したのが左下の地図。東国で占められていることがよくわかる。伊賀、三河から相模、安房などは、石上政権の直轄地だったと考えられる。
また緑で示してある国は713年に新設された美作国。その読みは「和名抄」に「三万佐加」と記されており、文字の意味を読み解くと、「三」:たびたび、「万」:多くの、「佐」:東国人が、「加」:加増されたとなる。

■平城京建設の長官、阿部宿奈麻呂

708年に造平城京司長官についた阿部宿奈麻呂は石上政権で律令国家「日本」の建国に大きな役割を果たした。

【資料12】阿部宿奈麻呂は引田・阿部氏を率い、平城遷都を実現した。
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もともと引田宿奈麻呂と名乗っており、704年に阿部に改姓した。「引田」の地名から、出身は現在の東京都あきる野市付近の可能性が高い。

■麻呂、不比等の後継者 長屋王

麻呂、不比等の後継者とみられる長屋王は不比等亡き後724年に左大臣になる。しかし5年後に罠にはまり自殺に追い込まれる。この背景にあるのは東国勢力の確執と利権争いであると推定する。

【資料13】長屋王の変は、東国勢力の分裂と抗争が背景にあった。
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■終わりに

本日は日本書紀成立期の時代背景というテーマで駆け足で振り返ったが、ここ数年の私(関根先生)のテーマの2/3ほどの内容を一挙に俯瞰した形になる。
この度の日本書紀シリーズで学ぶ内容の重要な背景なのでその中でも触れる事項は多いと思うが、大切な資料ばかりなので、気になる点があればぜひ個別に問い合わせしていただきたい。

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2018-03-15

萬葉集:失われた古代語「まそ鏡」「さ雄鹿」と徐福東渡

見附市学びの駅ふぁみりあでシリーズ開催されている「古代日本史講座」。
第16期の最終回となった本日は「平城京遷都と日本建国の謎を解く」シリーズの第4回目、近年日本各地で話題になることが多くなった「徐福」をきちんと史記から読み解いていき、さらに萬葉集に隠された「徐福」事跡を解き明かしていく。

「徐福」と聞いて、一般的には始皇帝に命じられて中国(秦)からどこかへ行った人というくらいの認識ではないか。日本各地には多くの徐福伝説が伝えられている。
関根先生は当初古事記の研究を始めたころに徐福に行き当たり、それ以降、古事記研究と共に徐福渡来の歴史的事実に興味を持っているという。しかし、一般的な徐福論と違うところがあり、本日の話はそのあたりを織り込んでいく予定。

■日本各地に伝わる徐福伝説

 日本に伝わる徐福伝説は、例えば佐賀県関連では以下のような動画が作られている。

徐福伝説(佐賀県で明治生まれの人から聞き取り調査した内容を元にしている)

徐福ものがたり(佐賀市が作成)


また、鳥羽一郎が歌う「徐福男夢」という演歌も存在する。(この動画はカバー)


ネットで「徐福」を検索すると実にさまざまな情報がヒットする。近年、特に観光資源として徐福が取り上げられることも多くなっている。世界で一番大きい徐福像というものも見ることができる。また、神奈川県の海沿いの石垣で見つかった丸い石を徐福が渡ってきたときの船のウエイトと紹介しているものなどもある。

八丈島でも多数の丸い石が見つかっており、徐福の船団のものではないかと取り上げられている。もともと八丈島には江戸時代に滝沢馬琴が『椿説弓張月』という本を書き、源為朝が八丈島に流れ着いて、そこに暮らしていた女性と幸せになり、徐福伝説による祟りの恐れから男女別々の島に暮らしていたのを払しょくしたという話が知られるようになった土地でもある。

このように主に江戸時代あたりにヒットしたストーリーなどで民衆に広がっていった流れは大きいが、もう少し時代をさかのぼると仏教説話による伝承が広がっていったところもある。先ほどの佐賀の伝承は後者かもしれない。

■古事記と徐福

【資料1】古事記を学ぶ

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この資料右半分の写真は真福寺本古事記の冒頭部分。
本文は3行目5文字目の「天地初發~」からである。そして真ん中辺に少し大きめな字体で上下を空けて「上件五柱神者別天神」と書かれているのが目を引く。古事記の中でこのような書き方をしているのはこの部分以外にはなく、特別なところと考えられる。

上件五柱神者別天神
この記述だが、「この5人の神様は別な天の神である」と読める。本文先頭の「天地」とは日本地域のことと考えられる(日本の古い物語を神話という形で古事記は語っていると解するため)ので、別な神とは日本以外のところから来た神様ということではないか。
そして5人の神の短い説明にあるように、独り身で妻を持たず、逃亡者だったと感じる。
そう感じるのはそのイメージに徐福が重なったから。
それで作者は「徐福」を「天之御中主神」と書いたのではないか。秦から来た徐福は「真福」と書かれたようだ。真福寺は徐福を顕彰するために古事記を伝えてきたと考えている。

それを裏付けるものとして萬葉集の柿本人麻呂の作品(1-42)などがあるが、後程詳しく見てみたい。
しかし、これは直感的なものなので、まずは客観的にどうとらえるのかを考えなくてはいけない。そのためには初めて徐福を描いた司馬遷の「史記」にあたる必要がある。

■史記

 司馬遷が2000年ほど前に書いたのが「史記」という本。手元には中国(台湾)で発刊された史記の影印と日本で木版本として発刊されたいわゆる和刻版の影印があり、徐福に関する記述の部分を比べてみると、若干違いがあるのが興味深い。

■じょふつ

 史記に登場する徐福(じょふく)の名称は徐市(じょふつ)。(「徐」の国の「市」さん、という意味)
 この「市」(ふつ)は和刻版では「市」(いち、し)の字で書かれているが、これは誤りで、「市」(ふつ)であることが重要である。

【資料2】『史記』に始まる歴史記述から数多くの「徐福伝説」が創作された。
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 この年表は徐福についての記述を辿って行ったもので、逵志保さんが作成されたもの。古来よりさまざまな人たちによって取り上げられてきたが、その変遷を概観することができる資料。「史記」によってはじめて「徐市」として取り上げられてから現在では「徐福」として研究テーマの一つを占めている。
 大まかに分けて、まずは歴史上の実在人物として史記や漢書を研究していくアプローチがまずある。もう一つは各地に伝わっている伝説の中に史実を求めて調査するアプローチがある。また書誌学的にやったり民俗学的にやったり、研究課題はいろいろある。
 最近目立つのは地域や先祖の事績を研究する活動で、それはよいことだが、自己満足に陥ったり観光目的のために徐福を利用する方向に走ったりするのが気になる。

■徐福研究文献1

【資料3】資料紹介 逵志保『徐福伝説考』(一季出版1991)
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徐福に関してしっかりとした研究を初めて行ったのがこの逵志保(つじしほ)さんではないか。1991年に発行されたこの本、元は大学の卒業論文だが、わかりやすく評価も高い。実際に読むと面白い。著者が女性ということもあり徐福界のマドンナ的存在になっている。
資料で紹介しているのは「徐福伝説のいきさつ」と題された部分。中国で最初に徐福が描かれるのは漢の時代、司馬遷の史記からであること。名前は徐市(じょふつ)であり、童男女数千人をつれて渡海したが失敗して9年後に戻ってくるという内容が紹介されている。
これが徐福伝説のもとになる記述であるとしている。
歴史的事実として受け入れるべきこのことを元にしている内容からも、しっかりした本であると評価する。徐福に関する書籍は手元にあるだけで40冊ほどにもなるが、この逵さんの本は一番しっかりしていると思う。

逵さんはこの後、大学院での修士論文を元に「徐福論」という本も出しており、内容は非常に充実している。
現在、各地各方面から引っ張りだこということもあり、それぞれの地方、分野の徐福の扱いを受け入れるた立場をとっている。懸念としては、史記、漢書そしてそこから出てくる徐福の本当の像についての踏み込みが足りない感がある。現在は再販されていなく、中古市場ではプレミアがついている。

■徐福研究文献2

【資料4】資料紹介 いき一郎 『徐福集団渡来と古代日本』(三一書房1996)
1803151996p2325
著者はジャーナリストであり、極力客観的にものを書こうという立場が貫かれてかなり面白い本である。
資料に紹介したのは史記列伝に記載されている伍被という将軍の話。秦の時代の三大悪人の一人として徐福をあげている。
一つのポイントは本紀では「徐市」(じょふつ)として登場していたが、列伝では「徐福」(じょふく)となっているということ。
もう一つのポイントは、「東渡集団」という言葉でとらえ、無事到着し王になったと伍被が言っているということ。
さらに著者は「童男女は始皇帝に滅ぼされた六国の子女だったと考えられる」と書いており、これは非常に洞察に富んでいると考える。いわば貢物として連れて行った童男女であり、秦本国の人民でなく敗れた国々から集めたと考える方が筋が通る。
ただし、東渡した人数が童男女に水夫等を加え一万人以上という推定には賛成しかねる。史記で三千人、漢書で五百人と書いており、敗れた六国それぞれから五百人集めたとすると三千人となり、理にかなう。その内、童男を水夫として訓練したのではないか。

■徐福研究文献3

徐福論を語るにはまずは史記をちゃんと読むことが最も重要である。そういう意味で数ある徐福文献の中でちゃんと読んだと思えるのは先にあげる2人しか見当たらず、多くの本は史記の一部を取り出して論じているにすぎない。まったく史記の記述に触れない本もある。

しかし、漢文で書いてる史記を自分で読むのはものすごくハードルが高い。そこで、自分はまず筑摩書房の「世界文学大系」に掲載されている史記の和訳を読んだ。さっと目を通す読み方に最適。例えば、秦の始皇帝は残虐というイメージがあるが、滅ぼした国のいいところを取り入れて、それをちゃんと行えるものはトップに据えて運営したから統一ができた、というようなことも書かれている。自分の目で原典を読んでみるというのは大切であり、この和訳は読みやすくとてもよいと思う。

【資料5】資料紹介 新釈漢文大系92 『史記12列伝五』(明治書院2007)
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こちらは研究・分析・調査に適している。原文、訳文、通釈、語釈が並べて書いてあり、客観的に把握できる。
資料に紹介しているのは先ほどのいき一郎さんが取り上げていた伍被の話の部分。

まず、本紀では「徐市」(じょふつ)と書いている人物が、列伝では「徐福」という書き方に変わっていることが興味深い。「市」と「福」は中国語では同じ発音ということだが、悪人として登場した際に、より好ましい字である「福」になっているのはなぜだろうか。

■百越と李斯

もうひとつは、「尉佗」についての記述部分。尉佗は始皇帝の死に乗じて、赴任先の楚地域を簒奪(さんだつ)し、南越国の王を称した。さらに衣服を繕わせるために3万人の未亡人を秦に要求。秦の皇帝は1万五千人を供出することを認めたと書かれている。
どうして司馬遷はこんなエピソードを史記に収録したのだろうか。

百越という国をキーワードに面白い推論ができる。
楚が滅びる60年くらい前、楚は百越を併合している。始皇帝に仕えた宰相に有名な李斯(りし)がいる。李斯は始皇帝の腹心であり、李斯という人なしに始皇帝が何かをするということはまずなかったと思われる。蒙恬にしても尉佗にしても徐福にしても李斯によって動いたのではないか。李斯は楚の出身で地域ははっきりしていないが百越にからんでいた人なのではないかと推定している。
さらに、尉佗が管轄した楚には大型船を造る技術があった。徐福船団の船を作ったのは尉佗ではないのかという結論に至る。

■李斯のもくろみ

さらに推論を進めると、徐福を派遣したのは始皇帝と言われているが、実は李斯ではなかったのかと考えられる。
始皇帝は六国を平定してひとつの統一国家を作るわけだが、それに一番貢献したのは李斯。しかし、李斯の立場からするともともと敵国の人物なので、国が全部まとまったときに一番煙たがられるのは自分ではないかということを恐れていた。参謀というのは一番たよりになると同時に一番怖い存在でもあった。
それで、李斯が自分の逃げ場所を東西に作ったのではないかと推定する。ひとつは海を渡ったどこか、もう一つは自分が生まれ育った場所である。前者は徐福に、後者は尉佗に託したのではないか。徐福東渡の裏にはそんな事情があったと考える。

■百越の女の子たちと日本

三千人の子供たちを連れていくときにどうやって統治すればいいか。第一に共通した言葉が必要だろう。
女の子千五百人を全員百越の女の子に交換してしまうというのがいい方法と考えられる。女の子同士は百越の言葉を共通の言葉として話せるが男の子同士は話せない状態になる。そういうことができないかと巡らせているときに百越で船を作っている尉佗が出てくる。百越の女の子千五百人(あるいは千二百五十人)を教育係兼世話役として登用、東渡時に交換してしまったのではないか。
それを命じたのは李斯。始皇帝が亡くなって権力争いに敗れるのだが、その手前のところで尉佗の事件が起きた。尉佗は千五百人の女の子を交換したことを使っておどしをかけた。三千人の10倍の三万人をよこせと言ったが、お前が手配したのは千五百人の女の子だけじゃないか、その10倍の一万五千人で十分だ、というような対応を李斯が行ったと考える。その記録がこれではないかと感じている。

なぜそういう推察をするかというと、東渡した女性がすべて同じ国(百越)の人であれば結果的に女優位になる。楚の男の子と楚の女の子のグループは楚の純粋種であり、日本の天皇家のもとになっているのではないか。そういう人がまずあって、その他は混血ということになる。しかしみんな百越の血を引いている。そして日本のどこかには楚の男の子と女の子の集団がいて、天皇家のもととなる場所があった。かつ日本各地に混血のところがあった。という地域が少なくとも6つくらいはあったと思われる。
そのうちの一つがたぶん新潟だったのはないか。それを直感的に感じているのが邪馬台国新潟説を唱えている桐生さんという方で、ある種当たっていると思う。百越というところをとらえているのはしかりだなと思う。また、「越」という部分が大きなポイントである。
冒頭の佐賀県の民話の中にも魚の話で「えつ」という言葉が出てきた。

司馬遷は、編纂途中で徐福東渡の歴史的事実に気づいたのだ。しかし、本紀と列伝記述作の間に、李陵の弁護がもとで自分が腐刑されるという難にあっている。司馬遷は、徐福東渡の事実を直接書くことを避け、伝文の形をとりオブラートに包んで書き表した。

■古代史をイメージし、邪馬台国を探る

古代史は、ある種の資料が出てきたものをどう自分が想像して補っていくかということが結構ある。それは各人に許されている。というか、しなければ繋がっていかない。しかし、できるだけ客観的な論理が裏付けとして必要だ。

そう考えると邪馬台国の話も少し見えてくる。なんで国がばらばらになって、それをまとめるのが卑弥呼という女王だったのか。卑弥呼は実在したと思われ、今ほどの主張からすればそうなる可能性が非常に高いと考える。女性がつながなくてはならない歴史的背景があった。
なぜ30か国に分かれて戦乱状態になったか?
「独身で隠身の5人の神々がいた」と特別に表記されている古事記には「くにわかくして、くらげのごとくただよえるとき」と書かれ、楚の男の子と楚の女の子がいた地域、つまり徐福集団中心グループがいて一番繁栄して、2000年前に大災害があって、すべて流されてしまった。

それが関東地方であることは、実際に住んでみるといい場所であることからも想像される。ところが関東地方南部には縄文遺跡はたくさんあるのに弥生遺跡がほとんどない。海抜10m以下は皆無と言っていい。千葉県西海岸部には数千の貝塚があるが、人が住んでいた遺跡は何もない。住居遺跡はなく貝塚だけがたくさんあるというのは、この頃に大災害があったとしか思えない。
7年前、東日本大震災の時の大津波被害を目の当たりにして、この思いを強くした。
天皇家の元というのは関東地方に住み着いた徐福集団の核だったが、大災害でその核がなくなりばらばらになった。その再編成が邪馬台国であると考える。

問題は、楚の童男女の子孫がほとんどが死滅、特に女性がいなくなった。それで残りの五国の中から女性を嫁がせるという形となる。大和地方には「大和六県」(やまとのろくのあがた)というのがあった。大和地方には特別な六の地域があり、それぞれの地域から天皇家に女性を差し出すというしくみが大和の初期段階にあったらしい。
次回シリーズの講座で日本書紀を詳しく取り上げるが、このあたりについても丁寧に解きほぐしていきたい。

■萬葉集から徐福を探る1【鹿】

資料4の下欄外に記載してあるキーワードで萬葉集を検索してみる。
萬葉集を「鹿」で検索すると、最初に柿本人麻呂の作品(1-42)がヒットする。

Rokusika

原文:潮左為二五十等兒乃嶋邊榜船荷妹乗良六鹿荒嶋廻乎

解釈してみる。
潮左:潮(うしお)が東(左は東の意)に行った→徐福集団の例えではないか
良六鹿荒嶋廻:優れた(良)6つの徐福集団(鹿)が未開地(荒嶋)を廻った
榜船荷妹乗:かい(榜)の船に妻(妹)を乗せて
二五十等兒:九九で二五十→とう。つまり「二五十等」で「とうと」→東渡した子供たち

 日本語で「十」を「とう」または「と」と読む理由はこの作品から来る概念と考える。「二五十」を「東渡(とう・と)」と読むことから始まったのではないか。以前取り上げた「おみなえし」に見えるように、萬葉集は日本語づくりの記録であったと思う。

■萬葉集から徐福を探る2【鹿子】

今度は「鹿子」で検索してみる。

Sikako1
原文:名兒乃海乎朝榜来者海中尓鹿子曽鳴成・怜其水手
訓読:名児の海を朝漕ぎ来れば海中に鹿子そ鳴くなるあはれその鹿子

末尾の「鹿子」の訓読を見てもわかるように「水夫」のこと。つまり人麻呂の歌で見たように「六鹿」は徐福の6つの集団を表し、さらにこの歌で見るようにそれぞれの集団(鹿)の童男たちは水夫であったということ。先ほど徐福集団の童男を水夫として教育したという話をしたが、その証明となる歌である。

■萬葉集から徐福を探る3【さ雄鹿】

Saojika1
原文:竿志鹿之心相念秋芽子之鐘礼零丹落僧惜毛
「さ雄鹿」は「竿志鹿」表記されている。舟をこぐ「竿」であり、ここでも「鹿」にからむと船がらみの言葉であることがわかる。ほかの歌では「さ」を「小」と書いている歌もあり、子供たちのことを表していると考えられる。
また「左男鹿」表記(6/1050)から、彼らが「東男」になったことが推察できる。
さらに「狭男壮鹿」(5/1047)という表現も、埼玉県には「狭山」という地名がある。交通の要所で、やや高台。大災害の難を逃れた童男の子孫がいた地域かもしれない。戦前には陸軍航空士官学校(現入間基地)があった。
ちなみに、萬葉集冒頭の作品には大和の国が「山跡乃國」(1/1)と記されている。

萬葉集で「鹿」を追っていくと船に関すること、しかも人を含んだ意味の使い方が定着していると言える。

■まそ鏡と徐福

【資料6】萬葉集「まそ鏡」用例と古代日本の歴史的事実
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資料に掲載しているように萬葉集で「まそ鏡」用例は35回。
「喚犬追馬鏡」という表記では犬を呼び寄せるのに「マ」、馬を追うのに「ソ」と言ったという学説がある。これはとんでもない誤りだ。
本来「追馬」とは競馬用語で馬に鞭を入れて強く走らせること。
それで、「犬を呼び、馬を走らせる」絵柄の鏡を探していると、数年前ヤフオクに出品された!! その時は落札できなかったが、昨年末にまた発見し、今回は落札できた。レプリカだと思うが、解説には8世紀の唐の品とあった。実際に入手したものの写真を資料に載せているが、実物を本日持ってきているので見てほしい。

資料に載せた「まそ鏡」の用例は様々な表記がある。本来の意味となるのは「真十鏡」であり、15回の用例がある。
「真」を「秦」の国、「十」を徐福の史記で登場した時の名前「徐市」の「市」の構成文字である「十」と解すると「秦からやってきた徐福」ととらえられる。

「徐市」の「市」は「十」+「冂」(けい)に分けることができる。「冂」という字は邑(=みやこ)の外の郊、郊の外の野、野の外の林、林の外が冂、ということでとんでもなく遠いところを意味する。司馬遷が「徐市」と記したのは「とんでもなく遠くへ行った十さん」ということではなかったか。そんなところからも徐福と萬葉集とつながってくる。

■日本書紀に隠された意味

資料の右下に《参照》として示してある2つの言葉は、まそ鏡の延長で発見した、日本書紀に登場する興味深い表記である。

一つ目は、国生みの最初に出てくる「オノゴロ島」の読みで知られる島の名前。
先頭の字は「石」と「殷」が一緒になった字であり、「殷」は古代中国の名前であると同時に「立派な」という意味を持っている。(資料に記してある数字は「漢字海」(初版)の掲載ページなので、自分で調べてみてほしい)
2文字目の「馭」は「統率する」、3文字目の「慮」は「おもんばかる」という意味であることがわかる。
つまり「立派な石さんが統率しおもんばかる島」ということになる。→「石さん」はもちろん石上麻呂を指す。

二つ目は「日本」という言葉に対する訓注表記で登場する。
「耶」は父を呼ぶ言葉。「騰」は馬に乗る。→「麻とうちゃんが馬に乗る」→「麻とうちゃん」はもちろん石上麻呂を指す。

石上麻呂の初見は『日本書紀』天武元年(672)七月壬子(7月23日)の条にある。「物部連麻呂」の名で登場し、大友皇子の自死を看取っている。大臣・諸将が四散して逃げる中、麻呂はただ一人、大友皇子を最後まで護衛した"騎士"だった。その後、大乙上(上から数えて19番目)という低い階位から身を立て、臣下の最高位・左大臣(708)となる。
『日本書紀』でオノゴロ島が「磤馭慮嶋」、日本が「耶麻騰」と、「石」「麻」「馬」がらみで表記される理由を考えたい。

つまり、日本の事始めと日本の読みを石上麻呂で表しており、日本書紀の作者は面白いことをしている。この辺の紹介は次回の日本書紀シリーズでもっとご紹介できると思う。

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