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2018-06-21

『日本書紀』を読む(4)聖帝仁徳と暴君雄略の実像を、『古事記』の表記と原文分析から推定する。

見附市学びの駅ふぁみりあでシリーズ開催されている「古代日本史講座」。
17期の『日本書紀』成立1300年!その謎を解くシリーズ。今回はその第6回「『日本書紀』を読む(4)聖帝仁徳と暴君雄略の実像を、「『古事記』の表記と原文分析から推定する。」と題して、仁徳天皇と雄略天皇実像を探っていく。
※以下「私」と記述している部分は関根先生のことを指しています。

■プロローグ:歴代天皇一覧

前回までで、神々の物語から始まり、神撫天皇、欠史七代、崇神天皇、景行天皇という時代を辿ってきた。天皇の変遷についてYouTubeに分かりやすい動画があったので、復習もかねて見ていただきたい。このビデオは、暗殺されたといったことをはじめとしてわりと客観的に簡潔に天皇の系譜を紹介している。

(33代推古天皇まで視聴)
今の推古天皇までが『古事記』に書かれているところ。今日取り上げる仁徳天皇から推古天皇までが『古事記』下巻にあたる。(舒明天皇の名前だけが少し紹介されて終わる)
一方『日本書紀』は次の舒明天皇から持統天皇までの30年間についても記されている。

■日本神話に取り入れられたもの

【資料1】資料紹介 河合敦『早わかり日本史』(日本実業出版社1997)
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これは少し前に出版されたものだが、『古事記』と『日本書紀』の一般説としての編纂目的が分かりやすくまとめられている。
私がこれに対して付け加えたい点が2点ある。
まず、日本神話は東南アジアの神話を骨格とし、中国、朝鮮、南太平洋、ギリシャ神話などの影響を受けているとしているが、日本の各氏族の祖先伝承的な神話も書かれており、それも加えるべきだ。
次に「大和朝廷の歴史」と記載されているが、『日本書紀』の時代の政権に「大和」ということがを使うのに私は違和感がある。
『続日本紀』を「大和」で検索した結果を下に示す。
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赤い線で示されているところは757年であり、それ以降は「大和」という名称が頻出している。しかし、それまでは一般的な名称として「大和」が使われていなかったのは一目瞭然だ。
もちろん、国名を指す「日本」(にほん)という言葉も、現在では弥生時代にまで遡って用いられることが多く、便宜上それはしかたのないことである。しかし政権という組織を表す言葉に当時はまったく使われていなかった「大和」を使うのは大きな違和感を感じる。
この750年頃から為政者たちの意識が「日本」(ヤマト)から「大和」(ヤマト)に変わっていったというのが私の「大和」観である。
なので、あえて「大和」を使うのならカタカナの「ヤマト」を使う。

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この757年を見ると「壬申年功田」という言葉がたくさん使われている。これは80年も前の壬申の乱の功績に褒賞を与えていることを記している。この時期は過去の見直しや新たな展開を積極的に進めており、その中から『続日本紀』も出てきており、この頃のいろいろな思惑が入ってきている。平城京から平安京に移った時の政治の形がこういうところに出てきているのと同様に、720年に成立した『日本書紀』にはその頃の政治の動向がそのまま反映されているのではないかと考える。

■この時代の『日本書紀』の内容に関する個人的感想

『古事記』下巻の最初に出てくる仁徳天皇と、その5代後に登場する雄略天皇を見ていきたい。『古事記』下巻に登場する天皇の中でかなりエポックになる人物なので取り上げることにする。

その前に、この時代の『日本書紀』をあらためて読み返してみて感じていることをお話したい。
ここに私が常日頃参照している岩波版「日本書紀」上下巻がある。興味のある所に付箋紙を貼っているのだが、見ていただいてわかるように、下巻にはたくさんの付箋紙が張ってあるのに対して上巻には数枚しかない。これは私自身の『日本書紀』に対する興味の度合いだと思ってもらってよい。
上巻で語られる天皇の物語は読んでいてつまらないと感じる。言い方は悪いが虚構性やインチキ臭さがをまず感じてしまうのだ。

仁徳天皇というと一般的には聖帝とされているが実のところはどうなのだろう。『日本書紀』の記述によると弟と皇位を譲り合うのだが、弟が自殺してしまう。それで馬乗りになって呪文を唱えると息を吹き返し話し合った後また死んでゆく、というようなストーリーが描かれ、いがみ合わずに譲り合うことの大切さを説いたと思われる部分がある。その反面、やたらに人を殺したりだまし討ちにしたりする話が出てくる。これは何なんだろう。

天皇家を神聖化したり権威付けしたりする目的で書かれていることは間違いないのだが、本当に天皇家の物語なのかと疑問に思うようなところがたくさんある。
これは、みんなちゃんと読まないであろうことを前提として、本音の部分、伝承の部分、つまりある種歴史的事実がたくさん残存しているのではないかと思える。

したがって、歴史的事実は何かという視点でとらえていくとかなり大変な作業になる。私はここ数年間、720年に至る50年間ほどを古代史研究のメインテーマとしてきたが、この期間だけでも大変である。それを考えると、これらの1000年近くを相手にするのはものすごいエネルギーがいりそうだ。
とはいえ、今シリーズであらためてアプローチしてみると興味ある部分も出てくるので、そのようなところをお伝えできればと思っている。

■「倭の五王」

ウィキペディアの「倭の五王」の項を見ていただきたい。
今日課題にしている仁徳天皇とか雄略天皇などその前後のところは、古墳と言われるものが日本にたくさんできた時代にあたる。前回の講座でお話した4世紀は「空白の4世紀」などと呼ばれ、中国にも朝鮮にも日本に関する資料が見つかっていない時期だが、そのあと「倭の五王」と呼ばれる人たちの記述が中国に見られる。日本から5人の王が中国に朝貢してきたという記録が見つかっている。
それが、応神天皇から今回取り上げる雄略天皇までのことではないかというのが、『日本書紀』と比較して導き出した比定説である。しかし、実際のところ事実はほとんどわかっていない。

次に同じくウィキペディアの「稲荷山古墳出土鉄剣」の項
埼玉県の稲荷山古墳から出土されたもので、鉄拳に金で象嵌されていてかなり長い文章が確認される。その中に「獲加多支鹵大王」という記述があり、ワカタケル大王つまり雄略天皇のことであると解釈するのが一般的である。その雄略天皇は「倭の五王」の中の最後の「武」であるということが定説になりつつある。

【資料2】資料紹介 原遥平『人物で読み解く【かんぺき】日本史』(こう書房2000)
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今日の仁徳天皇、雄略天皇の時代はそんな背景の時代である。

■仁徳天皇

「仁徳」というのは後でつけられた中国風の名前で、基本的には「おほさざき」と呼ばれていた。そしてこれを漢字でどう表記するかで『古事記』と『日本書紀』で違いがある。
『古事記』では「大雀」、『日本書紀』では「大鷦鷯」であるが、どちらも「おほさざき」と呼ぶ。
このことについては以前から興味があり調べていて、この講座でも過去に取り上げたことがある。重複する部分もあるが改めて紹介したい。

【資料3】Watch! 古事記下巻が示唆する編纂者像『大雀表記と下巻の意味は』
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この資料の真ん中に載せてあるのが真福寺本古事記の「大雀」(おほさざき)表記の部分、右側が本居宣長が過去のものを参考にしつつ自分が解釈した「大雀」の部分。そして左側に載せたのが江戸時代の寛永版古事記の写本である。『古事記』なのに日本書紀式の表記となっている。(改竄してある)

改めて真ん中の真福寺本古事記を見ていただきたい。「古事記下巻」というタイトルの後に「大雀」と続いている。
そもそも「雀」という字の成り立ちを調べるために漢字海で調べてみると「説文」として「人里近くにいる小鳥。『小』(ちいさい)と『隹』(とり)から構成されている。」となっている。
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つまり小さい鳥というのが基本的な意味である。このことについては漢字についてかなりこだわりがあった時代の『古事記』『日本書紀』の作者は分かっていたはずだ。それにもかかわらず「大きな小鳥」というおかしな表記を天皇につけるというのはどうしてだろう。

さらに真福寺本の下巻冒頭には「仁徳」と注記してある箇所があり、それは「大集」と表記してある。漢字海で今度は「集」を調べてみると、なりたちが「多くの鳥が木の上にいるさま」となっている。
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この下巻冒頭部分には引き続き「太雀」という表記も現れる。
3種類の書き方で仁徳を示し、人物像のようなものを訴えているととらえられる。

ここで右側の「宣長本古事記の序」を見ていただきたい。「臣安麻呂これを献上する」と書いてある。「安麻呂」とはもちろん「太安麻呂」のことである。「太安万侶」は「太」という表記になっているが、安麻呂の氏族はもともと「多氏」と呼ばれていたが、安麻呂は自分で「太」という表記に変えている。ということは「太」という字は当時あまり悪い意味ではなかったのかもしれないと想像する。

ということは、この真福寺本で見られる3種類の表記は「小さい小鳥がいっぱい鳥を集めているうちに太くなった」というような肯定的な意味を表しているのかもしれない。
真福寺本古事記はこのように興味深い書き方をしているが、『日本書紀』にはこんなばかにしたような書き方は失礼だということで「大鷦鷯」と改められたのではないだろうか。あるいは『日本書紀』に「大鷦鷯」と書かれていたのを見た太安麻呂が、『古事記』にはあえて揶揄した表記にしたのかもしれない。それは『日本書紀』の大部分は『古事記』編纂以前にできていた可能性が高いからである。

それをさらに1000年ほど経った江戸時代初期に、やはり「大雀」表記はまずいということで寛永本古事記では『日本書紀』にならった表記に書き換えられたのではないだろうか。つまり、天皇の名前に「大きな小鳥」はまずいのでは、と感じた人がいたということの証拠となる。そしてそういうような評価を受ける天皇が仁徳天皇ではなかったではないか、というのが歴史的事実ではないかと思う。

このようなことを踏まえて改めて『日本書紀』を読んでみていただきたいが、岩波版の他には石ノ森章太郎の『日本の歴史』シリーズはとてもお勧めである。歴史と物語をうまく取り込みながらきちんと解釈して内容をまとめている。

■雄略天皇

仁徳天皇から5代後に即位したのが雄略天皇。もともとの名が「大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)」といい、「倭の五王」のところで話したように稲荷山古墳から見つかった金錯銘鉄剣銘などを証とし、「武」とされる人物に比定されている。これらはほぼ事実とみて間違いない。

暴力的な行動が多く書かれていることより大悪天皇と呼ばれている反面、有徳天皇などと真反対に書かれる場合もある。これらのことは、この天皇になった時代にかなり強大な国になったと言われている一因であろう。(私はどこまで強大だったのか疑問に感じるが。)

【資料4】資料紹介 宇治谷孟『日本書紀(上)』(講談社学術文庫1988)
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この資料は、私が現代語訳としてとても活用している宇治谷孟さんの『日本書紀』から雄略天皇の記述を抜粋したもの。天皇に即位したときのことと緒妃とのかかわりを書いてある。

この記述の中に興味深い内容があり、最近注目している。それは「物部連目を大連とした」というくだりである。

私のメインテーマの石上麻呂が亡くなった717年3月3日の『続日本紀』の記述に「大臣泊瀬朝倉朝庭大連物部目之後」というものがある。
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大臣(石上麻呂)は「泊瀬朝倉朝庭」(雄略天皇の営んだ宮殿)の「大連物部目」(おおむらじものべのもく)の祖先である、と書かれている。
そこで「大連物部目」で日本書紀や古事記を検索するがヒットしない。そういう場合は字句を絞り込んで検索してみるとよい。「大連」や「物部連」などで検索すると『日本書紀』の雄略天皇に以下の個所がヒットした。
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「物部連目爲大連。」つまり、「物部連目」(もののべむらじもく)が雄略天皇によって「大連」(おおむらじ)となった、という記述である。

この物部目についてのエピソードを資料に紹介しているが、一晩しか夜を共にしなかった采女から生まれた女の子を自分の子供と認めなかった天皇に対して、「一晩に何度呼ばれましたか」と質問し、天皇が「七回呼んだ」と答えたことから女の子を皇女と認めさせた、というような話が書いてある。

■エピローグ:歴史が残っていくということ

この1300年前の一見どうでもいいような子供認知のエピソードを現代のわれわれが目にしているということについて、歴史が残ることについての偶然性について感じるところがある。

私の家では紙ごみをリサイクル業者に持ち込んで処分してもらうのだが、ある時、積み重なったごみの中に時宗の年報や専門書などが山積みになっているのを発見した。業者に交渉して一部を廃棄せずに持ち帰り保存することができたが、こんな偶然から歴史が忘れ去られたり引き継がれたりする。
『日本書紀』や『古事記』なども、何巻かの巻物として当初は存在していたはずだが、そうやって拾われたり捨てられたりしてきたのだろう。そう考えると、1300年前のものが写本にしろ何冊も現代に引き継がれているということは素晴らしいことだと思う。

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