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2018年6月

2018-06-30

ピアノレッスンNo.167『夜のストレンジャー』

元は映画音楽(ダイナマイト作戦)でしたが、フランク・シナトラが歌ってヒットした曲です。いつか弾きたかったのですが、先週終了したテレビドラマ「崖っぷちホテル!」の主題曲として使われているのを聴いて、今回とりあげました。

楽譜は、アメリカでフリーで出回っているものをダウンロードしました。(正規な著作権はわかりませんが)

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2018-06-23

ピアノレッスンNo.166『エーゲ海の真珠』

ポールモーリアのヒット曲です。

使用楽譜:「ポピュラー・ピアノ名曲全集(1)」(松山祐士編)(ドレミ楽譜出版)

Digital Piano : KAWAI CA67
Recorder : Olympus LS-20M
Editor : PEGASYS TMPGEnc Vdeo Mastering Works 5

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2018-06-21

『日本書紀』を読む(4)聖帝仁徳と暴君雄略の実像を、『古事記』の表記と原文分析から推定する。

見附市学びの駅ふぁみりあでシリーズ開催されている「古代日本史講座」。
17期の『日本書紀』成立1300年!その謎を解くシリーズ。今回はその第6回「『日本書紀』を読む(4)聖帝仁徳と暴君雄略の実像を、「『古事記』の表記と原文分析から推定する。」と題して、仁徳天皇と雄略天皇実像を探っていく。
※以下「私」と記述している部分は関根先生のことを指しています。

■プロローグ:歴代天皇一覧

前回までで、神々の物語から始まり、神撫天皇、欠史七代、崇神天皇、景行天皇という時代を辿ってきた。天皇の変遷についてYouTubeに分かりやすい動画があったので、復習もかねて見ていただきたい。このビデオは、暗殺されたといったことをはじめとしてわりと客観的に簡潔に天皇の系譜を紹介している。

(33代推古天皇まで視聴)
今の推古天皇までが『古事記』に書かれているところ。今日取り上げる仁徳天皇から推古天皇までが『古事記』下巻にあたる。(舒明天皇の名前だけが少し紹介されて終わる)
一方『日本書紀』は次の舒明天皇から持統天皇までの30年間についても記されている。

■日本神話に取り入れられたもの

【資料1】資料紹介 河合敦『早わかり日本史』(日本実業出版社1997)
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これは少し前に出版されたものだが、『古事記』と『日本書紀』の一般説としての編纂目的が分かりやすくまとめられている。
私がこれに対して付け加えたい点が2点ある。
まず、日本神話は東南アジアの神話を骨格とし、中国、朝鮮、南太平洋、ギリシャ神話などの影響を受けているとしているが、日本の各氏族の祖先伝承的な神話も書かれており、それも加えるべきだ。
次に「大和朝廷の歴史」と記載されているが、『日本書紀』の時代の政権に「大和」ということがを使うのに私は違和感がある。
『続日本紀』を「大和」で検索した結果を下に示す。
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赤い線で示されているところは757年であり、それ以降は「大和」という名称が頻出している。しかし、それまでは一般的な名称として「大和」が使われていなかったのは一目瞭然だ。
もちろん、国名を指す「日本」(にほん)という言葉も、現在では弥生時代にまで遡って用いられることが多く、便宜上それはしかたのないことである。しかし政権という組織を表す言葉に当時はまったく使われていなかった「大和」を使うのは大きな違和感を感じる。
この750年頃から為政者たちの意識が「日本」(ヤマト)から「大和」(ヤマト)に変わっていったというのが私の「大和」観である。
なので、あえて「大和」を使うのならカタカナの「ヤマト」を使う。

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この757年を見ると「壬申年功田」という言葉がたくさん使われている。これは80年も前の壬申の乱の功績に褒賞を与えていることを記している。この時期は過去の見直しや新たな展開を積極的に進めており、その中から『続日本紀』も出てきており、この頃のいろいろな思惑が入ってきている。平城京から平安京に移った時の政治の形がこういうところに出てきているのと同様に、720年に成立した『日本書紀』にはその頃の政治の動向がそのまま反映されているのではないかと考える。

■この時代の『日本書紀』の内容に関する個人的感想

『古事記』下巻の最初に出てくる仁徳天皇と、その5代後に登場する雄略天皇を見ていきたい。『古事記』下巻に登場する天皇の中でかなりエポックになる人物なので取り上げることにする。

その前に、この時代の『日本書紀』をあらためて読み返してみて感じていることをお話したい。
ここに私が常日頃参照している岩波版「日本書紀」上下巻がある。興味のある所に付箋紙を貼っているのだが、見ていただいてわかるように、下巻にはたくさんの付箋紙が張ってあるのに対して上巻には数枚しかない。これは私自身の『日本書紀』に対する興味の度合いだと思ってもらってよい。
上巻で語られる天皇の物語は読んでいてつまらないと感じる。言い方は悪いが虚構性やインチキ臭さがをまず感じてしまうのだ。

仁徳天皇というと一般的には聖帝とされているが実のところはどうなのだろう。『日本書紀』の記述によると弟と皇位を譲り合うのだが、弟が自殺してしまう。それで馬乗りになって呪文を唱えると息を吹き返し話し合った後また死んでゆく、というようなストーリーが描かれ、いがみ合わずに譲り合うことの大切さを説いたと思われる部分がある。その反面、やたらに人を殺したりだまし討ちにしたりする話が出てくる。これは何なんだろう。

天皇家を神聖化したり権威付けしたりする目的で書かれていることは間違いないのだが、本当に天皇家の物語なのかと疑問に思うようなところがたくさんある。
これは、みんなちゃんと読まないであろうことを前提として、本音の部分、伝承の部分、つまりある種歴史的事実がたくさん残存しているのではないかと思える。

したがって、歴史的事実は何かという視点でとらえていくとかなり大変な作業になる。私はここ数年間、720年に至る50年間ほどを古代史研究のメインテーマとしてきたが、この期間だけでも大変である。それを考えると、これらの1000年近くを相手にするのはものすごいエネルギーがいりそうだ。
とはいえ、今シリーズであらためてアプローチしてみると興味ある部分も出てくるので、そのようなところをお伝えできればと思っている。

■「倭の五王」

ウィキペディアの「倭の五王」の項を見ていただきたい。
今日課題にしている仁徳天皇とか雄略天皇などその前後のところは、古墳と言われるものが日本にたくさんできた時代にあたる。前回の講座でお話した4世紀は「空白の4世紀」などと呼ばれ、中国にも朝鮮にも日本に関する資料が見つかっていない時期だが、そのあと「倭の五王」と呼ばれる人たちの記述が中国に見られる。日本から5人の王が中国に朝貢してきたという記録が見つかっている。
それが、応神天皇から今回取り上げる雄略天皇までのことではないかというのが、『日本書紀』と比較して導き出した比定説である。しかし、実際のところ事実はほとんどわかっていない。

次に同じくウィキペディアの「稲荷山古墳出土鉄剣」の項
埼玉県の稲荷山古墳から出土されたもので、鉄拳に金で象嵌されていてかなり長い文章が確認される。その中に「獲加多支鹵大王」という記述があり、ワカタケル大王つまり雄略天皇のことであると解釈するのが一般的である。その雄略天皇は「倭の五王」の中の最後の「武」であるということが定説になりつつある。

【資料2】資料紹介 原遥平『人物で読み解く【かんぺき】日本史』(こう書房2000)
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今日の仁徳天皇、雄略天皇の時代はそんな背景の時代である。

■仁徳天皇

「仁徳」というのは後でつけられた中国風の名前で、基本的には「おほさざき」と呼ばれていた。そしてこれを漢字でどう表記するかで『古事記』と『日本書紀』で違いがある。
『古事記』では「大雀」、『日本書紀』では「大鷦鷯」であるが、どちらも「おほさざき」と呼ぶ。
このことについては以前から興味があり調べていて、この講座でも過去に取り上げたことがある。重複する部分もあるが改めて紹介したい。

【資料3】Watch! 古事記下巻が示唆する編纂者像『大雀表記と下巻の意味は』
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この資料の真ん中に載せてあるのが真福寺本古事記の「大雀」(おほさざき)表記の部分、右側が本居宣長が過去のものを参考にしつつ自分が解釈した「大雀」の部分。そして左側に載せたのが江戸時代の寛永版古事記の写本である。『古事記』なのに日本書紀式の表記となっている。(改竄してある)

改めて真ん中の真福寺本古事記を見ていただきたい。「古事記下巻」というタイトルの後に「大雀」と続いている。
そもそも「雀」という字の成り立ちを調べるために漢字海で調べてみると「説文」として「人里近くにいる小鳥。『小』(ちいさい)と『隹』(とり)から構成されている。」となっている。
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つまり小さい鳥というのが基本的な意味である。このことについては漢字についてかなりこだわりがあった時代の『古事記』『日本書紀』の作者は分かっていたはずだ。それにもかかわらず「大きな小鳥」というおかしな表記を天皇につけるというのはどうしてだろう。

さらに真福寺本の下巻冒頭には「仁徳」と注記してある箇所があり、それは「大集」と表記してある。漢字海で今度は「集」を調べてみると、なりたちが「多くの鳥が木の上にいるさま」となっている。
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この下巻冒頭部分には引き続き「太雀」という表記も現れる。
3種類の書き方で仁徳を示し、人物像のようなものを訴えているととらえられる。

ここで右側の「宣長本古事記の序」を見ていただきたい。「臣安麻呂これを献上する」と書いてある。「安麻呂」とはもちろん「太安麻呂」のことである。「太安万侶」は「太」という表記になっているが、安麻呂の氏族はもともと「多氏」と呼ばれていたが、安麻呂は自分で「太」という表記に変えている。ということは「太」という字は当時あまり悪い意味ではなかったのかもしれないと想像する。

ということは、この真福寺本で見られる3種類の表記は「小さい小鳥がいっぱい鳥を集めているうちに太くなった」というような肯定的な意味を表しているのかもしれない。
真福寺本古事記はこのように興味深い書き方をしているが、『日本書紀』にはこんなばかにしたような書き方は失礼だということで「大鷦鷯」と改められたのではないだろうか。あるいは『日本書紀』に「大鷦鷯」と書かれていたのを見た太安麻呂が、『古事記』にはあえて揶揄した表記にしたのかもしれない。それは『日本書紀』の大部分は『古事記』編纂以前にできていた可能性が高いからである。

それをさらに1000年ほど経った江戸時代初期に、やはり「大雀」表記はまずいということで寛永本古事記では『日本書紀』にならった表記に書き換えられたのではないだろうか。つまり、天皇の名前に「大きな小鳥」はまずいのでは、と感じた人がいたということの証拠となる。そしてそういうような評価を受ける天皇が仁徳天皇ではなかったではないか、というのが歴史的事実ではないかと思う。

このようなことを踏まえて改めて『日本書紀』を読んでみていただきたいが、岩波版の他には石ノ森章太郎の『日本の歴史』シリーズはとてもお勧めである。歴史と物語をうまく取り込みながらきちんと解釈して内容をまとめている。

■雄略天皇

仁徳天皇から5代後に即位したのが雄略天皇。もともとの名が「大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)」といい、「倭の五王」のところで話したように稲荷山古墳から見つかった金錯銘鉄剣銘などを証とし、「武」とされる人物に比定されている。これらはほぼ事実とみて間違いない。

暴力的な行動が多く書かれていることより大悪天皇と呼ばれている反面、有徳天皇などと真反対に書かれる場合もある。これらのことは、この天皇になった時代にかなり強大な国になったと言われている一因であろう。(私はどこまで強大だったのか疑問に感じるが。)

【資料4】資料紹介 宇治谷孟『日本書紀(上)』(講談社学術文庫1988)
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この資料は、私が現代語訳としてとても活用している宇治谷孟さんの『日本書紀』から雄略天皇の記述を抜粋したもの。天皇に即位したときのことと緒妃とのかかわりを書いてある。

この記述の中に興味深い内容があり、最近注目している。それは「物部連目を大連とした」というくだりである。

私のメインテーマの石上麻呂が亡くなった717年3月3日の『続日本紀』の記述に「大臣泊瀬朝倉朝庭大連物部目之後」というものがある。
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大臣(石上麻呂)は「泊瀬朝倉朝庭」(雄略天皇の営んだ宮殿)の「大連物部目」(おおむらじものべのもく)の祖先である、と書かれている。
そこで「大連物部目」で日本書紀や古事記を検索するがヒットしない。そういう場合は字句を絞り込んで検索してみるとよい。「大連」や「物部連」などで検索すると『日本書紀』の雄略天皇に以下の個所がヒットした。
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「物部連目爲大連。」つまり、「物部連目」(もののべむらじもく)が雄略天皇によって「大連」(おおむらじ)となった、という記述である。

この物部目についてのエピソードを資料に紹介しているが、一晩しか夜を共にしなかった采女から生まれた女の子を自分の子供と認めなかった天皇に対して、「一晩に何度呼ばれましたか」と質問し、天皇が「七回呼んだ」と答えたことから女の子を皇女と認めさせた、というような話が書いてある。

■エピローグ:歴史が残っていくということ

この1300年前の一見どうでもいいような子供認知のエピソードを現代のわれわれが目にしているということについて、歴史が残ることについての偶然性について感じるところがある。

私の家では紙ごみをリサイクル業者に持ち込んで処分してもらうのだが、ある時、積み重なったごみの中に時宗の年報や専門書などが山積みになっているのを発見した。業者に交渉して一部を廃棄せずに持ち帰り保存することができたが、こんな偶然から歴史が忘れ去られたり引き継がれたりする。
『日本書紀』や『古事記』なども、何巻かの巻物として当初は存在していたはずだが、そうやって拾われたり捨てられたりしてきたのだろう。そう考えると、1300年前のものが写本にしろ何冊も現代に引き継がれているということは素晴らしいことだと思う。

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2018-06-17

都響プロムナードコンサートNo.378

6月17日日曜日。今季度2回目の都響プロムナードコンサート。

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サントリーホールへはいつも地下鉄南北線六本木一丁目駅を利用するのだけど、今日は三田線を内幸町まで行き、地上に出て都バスでアークヒルズに向かった。「都01」という新橋~六本木~渋谷を結ぶ路線だ。本数も多いので便利だし、サントリーホールの目の前まで運んでくれるのがうれしい。

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そのせいもあって少し早めに到着。


13:20の開場時刻になるとカラヤン広場にオルガンの音が響き渡る。サントリーホール玄関上に設置されているパイプオルゴールが開場を知らせる音楽を奏でている。

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今日の曲目はカリンニコフという初めて耳にする作曲家の交響曲。

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指揮:オレグ・カエターニ
ピアノ:藤田真央
管弦楽:東京都交響楽団
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チャイコフスキー:歌劇『エフゲニー・オネーギン』より「ポロネーズ」
チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 op.23
(アンコール ショパン:マズルカ Op.63-3)
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カリンニコフ:交響曲第1番 ト短調
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カリンニコフの交響曲は、シンプルさとロシア的な響きが組み合った、とても聴きやすい曲という印象。
ピアノの藤田真央(スケートの真央ちゃんは女の子だけど、こちらの真央ちゃんは男の子)は若干二十歳のかわいい男の子という容姿だけど、表情豊かで柔らかい演奏はとても聴きやすく好きな演奏だ。
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プログラム誌の「月刊都響」。今年度から表紙が楽器の写真になった。先月はティンパニーだったけど、今月はホルン。なかなかかっこいい。

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帰りは日比谷線に乗るためにカラヤン広場から階段を上り、ホール裏手方面へ出た。

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すると正面にオークラホテルが現れる。ホテルの裏手に回ると神谷町駅だ。

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神谷町駅はずいぶん久しぶり。ホームも新しくなっており、広くなっていた。
日比谷線に乗り込み、銀座まで。目的地は有楽町交通会館前のマルシェ。

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ただ単にここのクルマ屋台でコーヒーを飲みたかったからだ。

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屋台とはいえ侮れない。これはマンデリン豆のストレートコーヒー。エスプレッソで抽出している感じで薫り高い。

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目の前を東海道新幹線が頻繁に通り抜けていく。落ち着く。

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2018-06-16

ピアノレッスンNo.165『ミスター・ロンリー』

懐かしい人にはとても懐かしい、ジェットストリームのオープニングテーマ曲「ミスター・ロンリー」です。(ショートバージョン)

使用楽譜:「JET STREAM ~ピアノ・エディション・セレクト60~」(ドレミ楽譜出版)

Digital Piano : KAWAI CA67
Recorder : Olympus LS-20M
Editor : PEGASYS TMPGEnc Vdeo Mastering Works 5

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2018-06-13

本格珈琲豆販売店が見附市内に登場!!

見附市学びの駅ふぁみりあで3回に渡って開催されたコーヒー講座の模様は先日紹介した。

「コーヒーの新常識」春講座
「コーヒーの新常識」春講座2回目
「コーヒーの新常識」春講座3回目

その時に講師をされていた斎藤悦美さんが自宅にコーヒー豆販売所を開かれたとのことなのでお邪魔してきた。
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お店は住宅街にあり齋藤さんのご自宅の玄関脇にある。目立つのぼりが立っているので近くまで行くとすぐわかるだろう。

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お店の名前は『珈琲味覚研究所』というマニアックなもの。店内には生豆やストレート焙煎豆、ブレンド豆などたくさんの種類が並んでいる。今まで見附市内で焙煎豆を購入できるところがなかったので、私としては本当にうれしい。

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なんと、購入前に試飲させてもらえる。

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齋藤さん自身が目の前でドリップしてくださるのを見るだけでもとても価値がある。

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テーブルにはスイーツが置かれている。「クッキーやチョコレートなどをいただく時に苦めの珈琲を飲むのがとてもおいしいから」とおっしゃっていた。

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長年UCCで仕事をしてこられた齋藤さんの好みは「酸味を感じないすっきりとした苦み」だそうで、焙煎する際にそのように調整されるとのこと。

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この日購入したのは「浪漫珈琲ブレンド」と「マイルドアメリカンブレンド」。

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焙煎は少量で行うよりもたくさんの豆を一度に焙煎する方がおいしくなる。このブレンド豆の焙煎はUCCに依頼してハイロースト、シティロースト、フルシティローストで焙煎したものを齋藤さんが独自にブレンドしたものだ。銘柄のブレンドでなく焙煎のブレンドというのが味の深みの秘密だそうだ。

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(クリックで拡大)
価格も200gで\1,100円からとリーズナブル。

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齋藤さんに写っていただいた。コーヒーのお話がとても情熱的で楽しい。

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お土産にコーヒーの木をいただいた。以前神戸のUCCコーヒー博物館でイベントのお土産にいただいたものを育てていたのだが、気を許したら雪にやられて失敗した経緯がある。1年中室内に置いておき、10度を下回らないように気を付けていれば元気に育ってくれるそうだ。それと直射日光が苦手なのでそれも気を付けたい。リベンジだ。

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2018-06-09

幻想的なブナ林を歩く~米山登山~

米山に登ってきた。新潟日報カルチャースクールで募集した山行だ。

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柿崎側の下牧ベース993という登山口は標高230m。そこから米山山頂は993m。そして柏崎川の大平登山口まで下山する。
ちなみに上の地図はスマートホンの登山用GPSアプリ「ジオグラフィカ」で走行ルートを記録した結果。このアプリ、今回初めて使ったけどとても使いやすかった。もう少し使いこなせるようになったらレビューしたい。

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新潟市西蒲区のメイワサンピアに6:30に集合し、バスに乗り登山口まで移動。

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スタート地点の下牧ベース993。993とは米山の標高だ。広い駐車場に休憩室やトイレもあり、なかなか使い勝手がよさそうだ。

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今回の参加者は25名。それに登山ガイドの方が3名、インストラクターが1名。

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最初は林道という感じでとても平坦な歩きやすい道が続く。

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米山は信仰の山。道中、お地蔵様などが散見される。

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ヤマボウシがとてもきれいに咲いていた。

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水の登山口との合流点に到着。標高470m。

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休憩所、こまのこや。標高600m

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この日はあいにくの霧の中の登山で見晴らしはまったくだめだった。しかし、巨大なブナの林の中を幻想的な雰囲気で歩くことができよかった。

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三十三観音。

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「しらば」とは、「尸羅場」と書き、仏教用語で守るべきこと「戒」のこととなっているが、要はここから先は女性は入ってはいけなかったらしい。明治時代まで守られていたそうだ。帰りに柏崎側にもあった。

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う~ん、ガイドさんが教えてくれたけど名前は忘れた。

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つつじ、かな?

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何だろう?

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お昼頃頂上に到着。三角点にタッチ。

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頂上には2階建ての立派な小屋があり、ゆっくり休憩できる。寝袋を持ち込んで泊っても夕日、星空、朝日が楽しめるかもしれない。今日は霧にかすんでいたけど・・・

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記念写真。

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バイオトイレも整備されている。

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尸羅場

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「ガンバレ岩」

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「711米峰」(ななひゃくじゅういちめーとるほう)という名前の山

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高さが山の名前だそうだ。

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大平集落近くの林道に合流

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カラーのコース案内。よく整備された登山道や山小屋もそうだけど、米山は地元で大切にされているんだなと感じた。

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そして大平登山口の駐車場に到着。予定より早く下山したので、迎えのバスが来るまでしばらく一休み。閉校式を行った後、バスでメイワサンピアに戻った。個人で行くと行き交えり同じルートになりがちなので、今日は面白かった。
標高は角田山より高いけど、角田山より登りやすいと感じた。たぶん天気が良ければ海も含めて素晴らしい眺望が楽しめたのではないかと思う。

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2018-06-07

喫茶去『小松庵』

ご近所の酒屋さんにゆうパックの発送をお願いしに寄った。「小松屋」というその酒屋のご主人はなかなか多趣味で、今日は最近入手したというシュテファン・グラッペリのバイオリンのLPを聴きながらコーヒーをごちそうになった。

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MistyやSatin Dollなどジャズのスタンダードを含むバイオリンを田舎の酒屋の喫茶去コーナーで、コーヒーをいただきながら聴かせていただく機会は貴重だ。
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LPを聴きながらご主人が話されたのは、最近旅行で行かれた中山道馬籠宿と藤村記念館のお話。
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「夜明け前」「破壊」などで知られる島崎藤村は自然主義文学であり、トルストイと通じるところがあるという。
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とにかくこのご主人は、ブルーグラス、ロック、ロシア文学、日本文学、焼き物、木彫など驚くべき教養の深さと好奇心にあふれているお方だ。
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私は時折パソコンでお手伝いをさせていただいているだけだけど、なんとかその教養に食い込んでみたいものだ。

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『日本書紀』を読む(3)崇神天皇と古代王権の萌芽

見附市学びの駅ふぁみりあでシリーズ開催されている「古代日本史講座」。
17期の『日本書紀』成立1300年!その謎を解くシリーズ。今回はその第5回「『日本書紀』を読む(3)崇神天皇と古代王権の萌芽」と題して、崇神天皇と景行天皇の事績を中心に進めていく。
※以下「私」と記述している部分は関根先生のことを指しています。

■プロローグ「ごみの不法投棄事件から歴史に向き合う姿勢を再確認

最近、私の自宅近くの道路にごみの不法投棄が多発していた。
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あまりにも目に余る状態が続いていたが、先日ごみの中身が道路に散乱しており、いくつか個人を特定するような書類が見つかったので、ひとつひとつネットなどで調査した。その結果、容疑者が通っていたと思われる現在の職場、過去の職場、商業施設などを明らかにし、人物を推定することができた。それらを警察署に届け出て、捜査してもらった結果、推定した容疑者が犯人であることが判明した。

今回の事件とその対応を通じて、歴史に向き合う姿勢・手法と同じであると感じた。現代に残されている断片的な資料、物的証拠、地理的条件などを丹念に分析し、こうであろうという歴史的事実、人物像などを明確にしていく。そしてそれらを記録していく。客観的な事実の積み上げこそが歴史研究には大事なのではないだろうか。

■ウィキペディアで概観する

『日本書紀』』の第五巻から書かれているのが崇神天皇。ウィキペディアの記載を確認してみると次のようなことが書かれている。

・和風諡号は『日本書紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)。
・四道将軍を派遣して支配領域を広げ、課税を始めて国家体制を整えたことから
御肇國天皇(はつくにしらすすめらのみこと)と称えられる。
・『古事記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)。

神武天皇についても初めて国を作ったという位置づけになっているが、神武天皇という人物は実在せず、崇神天皇が初めて実在したのではないかということが一般的に言われている。

掲載されている系図を確認してみる。
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崇神天皇は第10代となる。これ以前は欠史と言われていてなにも事績が書かれていないが、崇神天皇の代から詳しい事績が書かれるようになる。状況としては国際的な広がりが出てきて任那、新羅、百済などがこのあたりから登場する。

第11代垂仁天皇
・和風諡号は『日本書紀』では活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)
・『古事記』には「伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)」とされている。

この後、12代景行天皇、13代成務天皇と続くが、この範囲が本日のテーマになる。

■崇神天皇と「四道将軍」

【資料1】資料紹介 別冊宝島1671『古事記と日本書紀』(宝島社2010)
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崇神天皇は諸国平定を企図して、「オオビコ」の活躍など全国に将軍を差し向けたとされているが、『古事記』と『日本書紀』では食い違いがある。この本は『古事記』での記述をベースに解説してあるが、記紀の違いを別枠で説明して「平定の過程を象徴化したものだろう」としている。

■空白の四世紀

この時代に日本については、中国や朝鮮にほとんど資料がない。日本では『古事記』『日本書紀』にヤマトタケルを代表とする英雄が登場し、小説やコミックなどでもよく描かれていたりするが、全部が全部史実とは思えない状況だ。事実は何かという視点で『日本書紀』を読んでみると、具体的に歴史的事実と考えられることはほとんどない。

【資料2】資料紹介 主婦の友ベストBOOKS『古事記と日本書紀』(主婦の友社2010)
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この資料に述べられているようにヤマトタケルについても『古事記』では悲劇性を前面に出したストーリーで読む人を引き付けるが、『日本書紀』では慈悲深い景行天皇と従順で勇敢な息子のヤマトタケルという関係性の話になっている。

ヤマトタケルのエピソードもそうだが、この時代の英雄譚は裏切り、暗殺、長兄の失脚を弟が拾う、というような話ばかりであり、すっきりしない。
私の大学時代は学生運動が過激化、退廃していく頃であった。革マル派や中核派など
グループ同士の確執も醜かったが、いわゆる国家権力側がさらにお互いをつぶし合わ
せるというような計略を弄していたのを目の当たりにした。
それと同じような状況がこの時代の『日本書紀』を読んでいるといたるところに出てくる。権力者がうまく立ち回り、そのようなだましあいつぶしあいばかりで暗澹たる気分になる。

そもそも前回も話したように、『日本書紀』は律令制による支配を強固なものにするため、天皇を神格化するのが大きな狙い。(もっともその後律令制度が弱体化し、仏教がそれにとって代わっていく流れとなるが)
しかし、この時に基礎が作られた律令制は現代まで脈々と生き続けている。制度だけでなく言葉についてもこの時代に基礎が作られてきた。それはすごいことだと思う。

奈良盆地には古代、大きな湖があったという、前回お話した説にもからむが、奈良盆地の周囲には多数の古墳が見つかっている。古墳はヤマト王権が作って全国に派生していったのではなく、実は地方で発生したものかもしれない。英雄譚で語られる九州勢力の東征などでヤマトに持ち込まれ、連合政権の各豪族がヤマトに集まった際に競い合ってつくったものではないか。三世紀から五世紀にかけ、奈良湖は縮小し田畑として開拓されていく。古墳は各勢力の象徴として、また開発地の土留めのような用途も兼ねて作られていったのではないかと想像できる。

■「遠祖」から導き出せる五大夫の子孫

古代史ビューア【麻呂】を使って分析を行うと様々な気づきがあるが、今日はその中の一つ「遠祖」を取り上げてみたい。「遠祖」については前回も紹介したが、『日本書紀』の中で出てくる家系が、当時のいろいろな一族の祖先であることをいたるところで紹介している際に使われる言葉だ。

検索すると神代を中心に全部で42回使われていることがわかる。
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一番最初は神代上7段に「中臣連」の遠祖について書かれており、一番最後は神功皇后の段での記述で終わっている。まさに遠い祖先のことを説明している。
それぞれをひとうひとつ見ていくといろいろな発見があるが、その中でも極めつけて意味深く面白い記述を紹介したい。
それは垂仁天皇二十五年2月8日の部分だ。【麻呂】で検索した画面は以下の通りとなる。この画面は強調表示に「垂仁二十五年」というグループを新規作成し、同一箇所に5回出現する「遠祖」にちなんだ名称を強調表示するように設定した。さらに新たに追加した機能により、この強調グループの語句群をそのままカスタム検索のグループとして作成してある。
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ここに登場する一族は見覚えのある名前が並んでいる。

阿倍臣遠祖武渟川別。
和珥臣遠祖彦國。
中臣連遠祖大鹿嶋。
物部連遠祖十千根。
大伴連遠祖武日

「安倍」「中臣」「物部」「大伴」いずれもそうそうたる一族であり、『日本書紀』成立期の政権中枢の一族だ。しかし「和珥」(わに)は見覚えがない。今まで見てきた『古事記』『日本書紀』成立期の登場人物には見当たらない名前だ。ウィキペディアなどで調べてみると枝氏族の中に「粟田氏」の名前を発見する。「粟田真人」は『日本書紀』ができる1年前の719年に三位の中納言で亡くなっており、『日本書紀』成立期の政権中枢の人物ということがわかる。(しかも「粟田真人」も653年の遣唐使の一員であることはとても重要だ)

この部分をまとめたのが次の資料。

【資料3】資料紹介 日本古典文学大系『日本書紀』(岩波書店1988)
      資料紹介 井上光貞監訳『日本書紀』(中央公論社1987)
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岩波版『日本書紀』から原文、中央公論版の『日本書紀』から現代語訳を引用している。さらに、左上部分に五大夫の子孫の対応しているであろう人物を示している。

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阿倍臣遠祖武渟川別。 →阿部宿奈麻呂(平城遷都の長官、トップを務めた)
和珥臣遠祖彦國。 →粟田朝臣真人
中臣連遠祖大鹿嶋。 →藤原朝臣大嶋&不比等(「大嶋」は「不比等」以上に重要かもしれない)
物部連遠祖十千根。 →石上朝臣麻呂
大伴連遠祖武日。 →大伴朝臣安麻呂
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『日本書紀』編纂期の政権トップ5が表記されているに等しく、大きな意図がありそうに思える。つまり、国が作り始められたころのトップ5は今(『日本書紀』成立期)のトップ5と同じだと言っているようにとらえられる。

【資料4】ウィキペディア『阿部野宿奈麻呂』
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五大夫の先頭に書かれている「阿部宿奈麻呂」についてウィキペディアの記事を紹介する。亡くなったのは720年であり『日本書紀』の成立年である。そういうことを示唆する形でトップに書かれている。編纂期のトップは石上麻呂であるが、ここに平城京建設の責任者だった「阿部」氏がトップに書かれているのは何か意味があると思われる。

【資料5】ウィキペディア『粟田真人』

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次に書かれている「和珥」は「粟田真人」を示唆していると考えられる。とても重要な653年の遣唐使の一員として唐に渡り研鑽を積み、さらに半世紀後遣唐執節使として周に渡り、武則天に日本建国を伝えるという重要な役割を演じた。『日本書紀』成立の前年719年に亡くなっている。

次の「中臣連」は基本的には不比等ととらえられるが、もう一人踏まえておきたい人物がいる。

【資料5】ウィキペディア『中臣大島』
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大嶋は不比等に先立って「中臣連」あるいは「藤原朝臣」の筆頭となった人物。
事績としては、天武期に『日本書紀』の編纂が始まった時に、そのメンバーの一人であり、かつ実際に執筆したということが記されている人物。つまり『日本書紀』の執筆者の確かなひとりである。
また、「藤原朝臣」と最初に名乗ったのはこの人物である可能性が高い。

■そしてさらに・・・

私の研究は710年前後のところを押さえたいというのが中心にある。なぜならば『古事記』ができたころの時代背景であり、『日本書紀』編纂期の頃の時代背景であるからである。それが崇神あるいは垂仁というヤマト朝廷ができたであろうところに「遠祖」という形で表現されていることを見てきた。

資料3で書いたように『日本書紀』編纂の目的は
①天皇を神格化させて権威を高め、中央官僚による人民支配の道具にする。
②各氏族の祖先を天皇家と関連付け、天皇に対する下級官僚や民衆の帰属性を高める。
ことにあるととらえている。それを裏付ける記述とも考えられる。

そしてもう一つ。五大夫の順番で「阿倍」「粟田」の順番になっていることを見逃せない。『日本書紀』の編纂を推し進めた勢力は「阿倍」「粟田」両氏だったのではないか。もし石上麻呂や藤原不比等が編纂の中心になっていたのであれば、五大夫の表記順は変わっていたはずだ。つまり『日本書紀』には、権力の変遷が祖先の表記として記述されている。

最終的に『日本書紀』の編纂を主導したのは石上麻呂、藤原不比等の後継者の人たちだった。石上麻呂、不比等が亡くなる前後の時代、当時の政治的権力は後継者に移りかけていた。不比等が亡くなる頃には、求心力を失った政権内で権力闘争が始まった。その直前の状況が『日本書紀』の記述に現れているとみることもできる。当時の権力者たちの自己証明的な色合いが、『日本書紀』に記された先祖伝承等に含まれていると思う。

『日本書紀』成立時には不比等は存命であったにもかかわらず、五大夫の順番が3番目になっていることから、かなり健康を崩して第一線を退いていた可能性も見えてくる。この後、長屋王の変から律令国家日本(ヤマト)の崩壊に至るという、私の古代日本(ヤマト)観の裏付けともなる『日本書紀』の記述と考える。

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2018-06-02

東海道53次ウォーク 第18-2回<袋井宿~見付宿>

2日目は、昨日のゴール、袋井の宿場公園から歩き始め、見付宿まで行く予定。ちなみに見付宿は現在の磐田市にあります。
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ホテルを出てJR掛川駅から袋井駅まで移動。掛川駅は新幹線駅がありますが、木造の駅舎を生かしたデザイン。上の写真の新幹線ホームもなまこ壁のようなデザインの概観になっています。浜松行きの電車に乗車。

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宿場公園。やはり「どまん中」という文字が前面に。

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やはり旧道はカーブが美しい。

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この酒屋さんのシャッターにも「どまん中」。

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小学校にも「どまん中」

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県道と合流。

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また旧道に分岐。

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掛川あたりから道路の民家の敷地内に小さな祠があるのに気が付いた。古いものから新しいものまでさまざまだが、いずれも北西方向に設置されている気がする。この地域の風習なのだろうか。

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一里塚跡。

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袋井市のごみステーションはいずれも装飾がほどこしてあり面白い。

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磐田市に突入。

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田園と松並木の風景は相変わらず続く。

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行く手に小高い丘が迫ってきた。「鎌倉古道」の案内板が。旧東海道はこちらには曲がらずまっすぐ進む。

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「明治の道」の道標。実はこの小高い丘へは三ヶ野坂という道が鎌倉時代から現代まで7本の道が整備されているらしい。

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江戸時代の東海道はここから急な坂を登っていく。

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木々に囲まれた坂はほどなく最上部へ。袋井から掛川が見渡せる大日堂がある。

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7本の道の案内板があった。

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この地区には歴史愛好会というグループがさまざまな案内や整備を行っているようだ。歩く側としてはとてもありがたい。

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わかば台団地入口の歩道橋の上。本日はここで終了することとした。

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「見付」というバス停から磐田駅までバスでおよそ15分ほど。次回は見付宿からウォーキング開始だ。

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2018-06-01

東海道53次ウォーク 第18-1回<掛川宿~袋井宿>

東京日本橋から開始した東海道53次ウォークですが、いよいよというかようやくというか、京都三条大橋までの約496㎞のちょうど中間点の袋井宿にたどり着く予定。

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今日は掛川駅近くから歩き始め、袋井市に入り、袋井宿の「東海道どまんなか茶屋」を目標に本陣跡公園あたりまで到達する予定。

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前回のゴール地点、この建物は掛川信用金庫。出発。

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掛川の町の旧街道沿いは江戸時代の雰囲気を色濃く再現している。

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史跡に「首」とか「血」とかついている場合はたいていの場合平将門がらみの場合が多い。ここの十九首塚もそのようだ。

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ところどころ古い家が残っている。この周辺を歩いていて感じるのは、立派な瓦屋根の家が多いということ。普通の民家もそうだ。

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天竜浜名湖鉄道の西掛川駅のガードをくぐる手前にサークルKがあり、イートインコーナーがあったので一休み。カフェフラッペを初めて食べた。レジでフラッペを注文したら店員さんが冷凍ケースから持ってきてくれた。本当は自分でレジに持っていくのだろうか。まず手で氷をほぐし、コーヒーマシンでミルクを注ぎ、ストローでかきまぜる。全部店員さんが説明しながらやってくれた。とても美味しかった妻はストロベリーフラッペにしたが、こちらも美味しかったようだ。

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これが天竜浜名湖鉄道のガード。すぐ左側が西掛川駅。

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曽我鶴酒造の高い煙突が見えてきた。この辺は旧道の名残が楽しめる。

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1号線掛川バイパスと東名高速をくぐると塀に囲まれた趣のある料亭風のお店「椎の木茶屋」がある。掛川名物の芋汁を食べさせてくれるとのことなので、立ち寄ろうと思ったのだが、13時半でオーダーストップ。タッチの差で入れず。でも後で調べてみたらランチ営業は芋汁をやっているのかよくわからない。

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椎の木茶屋をすぎるとあたりは田園風景になる。そして松並木が続き、強い日差しの中、心地よい風もあり、とても歩きやすかった。

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再び現在の1号線バイパスに合流するが、地下をくぐって原谷川を渡る。川の向こうは袋井市だ。

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袋井市に入ってすぐのところに花茣蓙(はなござ)公園がある。こじんまりとしているが、きれいなベンチもトイレも水飲み場も解説板もあり、小休止した。

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しばらく松並木が続く。右手はダイワハウスなどの工場が続く。

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袋井市立東小学校の門には「東海道五十三次どまん中東小学校」という看板がかかっている。袋井市内には「どまん中」という表示がいたるところにある。100m歩くとかならず一つは目にするという感じである。

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さきほど芋汁を食べ損ねたので、こちら「サガミ」という蕎麦屋さんに入った。

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「梅ととろろとめかぶそば(冷やし)」夏になるとこういうものが食べたくなる。

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冷やし白玉ぜんざい(笑)

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袋井市側は掛川よりも田園風景が広がる。先日までのお茶畑風景は袋井ではまったく見られない。広重の絵もそんな風景が描かれている。地形的に低地なのだろう。
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袋井市街地に入ってくる。市街地にも旧道が残されている。

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「どまんなか茶屋」に到着。記念写真。

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午後4時を過ぎていたので茶屋は閉まっていたが、東屋のひょうたんの手入れをされに来られた方といろいろとお話をさせていただいた。

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東本陣跡に整備されている東本陣公園。

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駅前通りと旧道が交差しているところに整備されている宿場公園。ボランティアらしき方々が花壇の手入れをされていた。今日はここがゴール。

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およそ1キロほどでJR袋井駅に到着。2駅戻り、掛川のホテルで宿泊した。

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