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2018-04-27

『日本書紀』の成立と編纂者の謎

見附市学びの駅ふぁみりあでシリーズ開催されている「古代日本史講座」。
全17期の『日本書紀』成立1300年!その謎を解くシリーズ。今回はその第2回「『日本書紀』の成立と編纂者の謎」と題して、『日本書紀』の編纂に関わった人物を追っていく。
※以下「私」と記述している部分は関根先生のことを指しています。

■日本書紀を「読む」(資料紹介)

日本書紀を読もうと思うときに、そこから取り出した日本神話を読むことは多いかもしれないが、日本書紀そのものを読む人は少ないと思う。以前から週刊で刊行される歴史シリーズなどで分かりやすく取り上げられてきたが、最近は単発のムックとしても日本書紀が取り上げられることが多い。
そのうち、週刊タイプのもので分かりやすい例を資料1で紹介する。

 【資料1】資料紹介 ビジュアル日本の歴史83 『古事記と日本書紀』(デアゴスティーニ2001)

Fig01
概要として
・舎人親王が元正天皇に献上した
・全30巻から構成されている
・天武天皇の時代から編纂が開始されたらしい
・神代から持統天皇まで書かれている
というようなことが簡潔に書かれている。

『日本書紀』は、いろいろ問題はあるにせよ、この時代の史料として第一級のものであることは間違いない。『日本書紀』なくして日本の歴史は語れないほどの重要な資料であることは間違いない。

日本書紀を研究する場合、日本書紀で古代史を研究することと、日本書紀そのものを研究することは別問題であり、まずは日本書紀そのものを研究する必要があると説いたのは坂本太郎氏で、古代史研究家に少なからず影響を与えた。私も例外ではない。しかし、戦前の歴史観を引きずっている部分が多いので、資料の分析はしっかりしているが結論がやや皇国史観に偏っている。

 【資料2】資料紹介 宇治谷孟『全現代語訳 日本書紀』(講談社学術文庫1988)
Fig02
この宇治谷孟氏の「全現代語訳 日本書紀」は、初めて現代語訳で『日本書紀』を書いた本として画期的だった。読みやすく、私もこの20年間かなりお世話になってきた。
しかし、あらためて「あとがき」を読んでみると、そこに記された署名の由来や編纂の経緯に関する解説は不十分、不正確であり、歴史的事実とは考え難い。書名の『日本書紀』は誤りであり本来は『日本紀』と呼ぶべきなど古い誤った説を断定している。本文の記載についても全面的に信頼すべきかどうか疑わしく、今後は参照の頻度がかなり落ちると思う。

 【資料3】資料紹介 岩波文庫版『日本書紀』全5巻(岩波書店1994-1995)
Fig03
この岩波文庫版『日本書紀』が研究目的としては、入手しやすさ、読みやすさもよく、もちろん信頼性も高いのでお勧めである。書名についても『日本書紀』『日本紀』どちらが正しいのかは決着がついていない、ときちんと解説している。
『日本書紀』の成立についても、続日本紀で「奏じた」と記されている舎人親王の他に、編集の実務に従った紀清人、三宅藤麻呂の三名が知られるほかは明らかでない、ときちんと書いている。

■音韻分析で述作者を解明する

 【資料4】日本書紀の音韻分析が、古代史の謎を解明する。
Fig04
この資料は森博達(ひろみち)氏の本の紹介で、過去にもしばしば取り上げている。しかし、今回は新しい視点を盛り込んでいる。
森氏は音韻分析で日本書紀をα群とβ群に分けた。α群の特徴は、正確な漢文で記述されているが日常生活で日本人が使うであろう言葉や事実の表現などに誤りが見られる。また、β群はそれとは逆に、日常の言葉や事実の記載は正しいが漢文の記述が日本式であったりする。α群は唐の人間が書いたものでありβ群は日本人が書いたものと推定できる。
このことより、7世紀末から8世紀初頭にかけて、續守言と薩弘恪というふたりの唐人によって述作され、その後、山田史御形や紀朝臣清人が残りを述作、同時に三宅臣藤麻呂が潤色を加えて完成されたと結論付けている。
森氏は学生の頃より図書館の情報カードによる絞り込みを熱心に活用していたという。それは古代史ビューア【麻呂】による分析と同じ方向を進む行為であり、できればこのソフトを使ってみていただきたいと思っている。

ただし、森氏は『日本書紀』編纂は不比等が主導して進めたと主張しているが、以下の事項により私は石上麻呂が主導したと推定する。
・元明-元正と天智系の女帝を擁立したのは、時の最高権力者左大臣石上麻呂であった。
・史書編纂の基盤となった『儀鳳暦』の採用は麻呂の事績と一致する。
・日本初の辞書『新字』編纂者境部連石積は麻呂の秘められた前身とかかわりがあったと推定される。
このへんを次の史料で詳しく見てみる。

■『日本書紀』編纂の主導者は左大臣石上麻呂だった

 【資料5】『日本書紀』編纂の主導者も、左大臣 石上麻呂だったが...。
Fig05
この資料は石上麻呂の事績と日本書紀撰上を含む主な出来事を併記した年表である。
まず注目するのは676年の新羅大使。敗戦の将大友皇子に最後まで付き添った人物であるにもかかわらず、わずか4年後に大乙上という上から数えて19番目という下級官僚の身で新羅大使になり新羅に渡る。唐と戦争していた新羅はこの期間に唐に勝利するという重要な時期にあたる。

古代日本においては太陰暦が使われていたが、690年ころから儀鳳暦(ぎほうれき)が採用され始めている。また『日本書紀』では基本は儀鳳暦に則って編纂されている。

暦については『暦ものがたり』(岡田芳朗)が暦が社会にどういうかかわりを持っているかということが詳しく書かれている。その中でポイントになるところは、儀鳳暦については持統天皇が文武天皇のために採用したものと論じていることである。文武天皇が即位するときに暦も一緒に発表し、混乱していた暦を儀鳳暦に統一するとしたことにより、歴史を背負って文武天皇が即位するという風に演出した。つまり暦の採用は政治的なものだったと言える。そういう論を見ても石上麻呂は持統天皇に引っ張り上げられた人なのだと強く感じる。

■『儀鳳暦』伝来と石上麻呂

 【資料6】資料紹介 蔡毅『日本における中国暦法』
Fig06
その儀鳳暦がどうして儀鳳暦と命名されたかという謎を追ったのがこの資料で紹介している蔡毅氏の『日本における中国暦法』。
日本の学界ではもともと唐で使われていた『麟徳暦』が唐の儀鳳年間に新羅に伝わったので『儀鳳暦』と称し、日本は新羅からそれをもたらしたので『儀鳳暦』の名を襲用したとするのが定説となっている。

唐の儀鳳年間は、西暦676年から679年にあたる。先ほど話したように、石上麻呂は天武五年(676)10月に遣新羅大使として新羅に渡り、翌年(677)に帰国している。
『日本書紀』には、麻呂と共に小使として「山背直百足」の名も記されている。百足はこのあと登場することはなくなるが、物部連麻呂は左大臣石上麻呂として政権トップに上り詰めた人物。麻呂が当時唐で使われていた中国暦を日本に持ち帰り、『儀鳳暦』と名付けたという可能性がもある。

蔡毅氏はさらに、653年に第二回目の遣唐使に留学僧として唐に渡り25年間にわたって律学の勉強に励み、678年に帰国した道光について言及している。678年に道光が帰国したというのは『三国仏法伝通縁起』の記録らしい。入手出来たら確認したいが、これが事実だとすると石上麻呂との接点が見えてくる。
以前から私は、石上麻呂は第二回遣唐使(653)の留学僧だったと推定している。道光はその時の同僚で、天武六年(677)麻呂と共に帰国したのだろう。
道光が新羅にいた事実はいまのところ確認できない。蔡毅氏が指摘しているように、遣唐使以外にも日中の交流があったとも考えられる。この時、密かに麻呂が唐に渡り、道光を連れ帰った可能性もある。

そもそも麻呂が壬申の乱で敵軍の将であったにもかかわらず、わずか4年で新羅大使に抜擢されたのは、なぜか?当時交流の途絶えていた唐の情勢を探るという密命があったのではないか。
麻呂は、道光と同じく、第二回遣唐使の学僧だった。しかも伊吉の言にあるように、冤罪によって三千里の外(敦煌)に流され、博得の弁明によって許された人物(倭種韓智興)だった。その智興は、斉明元年(655)中臣鎌足の長男貞恵と共に、新羅経由で帰国した。その経歴が、大使抜擢の理由と考えられる。

■古代史ビューア【麻呂】でさぐる『日本書紀』の成立と編纂者の謎

『日本書紀』が具体的にその名前と共に記されているのは続日本紀の中で養老四年に

一品舍人親王奉勅。修日本紀。至是功成奏上。紀卅卷系圖一卷。

と記されている部分のみである。つまり舎人親王が文書30巻と系図1巻を奏上した、という事実だけが記されているにとどまる。
また、『日本書紀』という書名は出てこないが、6年前の和銅七年に

詔從六位上紀朝臣清人。正八位下三宅臣藤麻呂。令撰國史。

と記されており、国史の編纂を命じている。

しかし、これらの人物以外にも直接または間接的に日本書紀編纂に関わった人物が数多くいる。
【麻呂】のカスタム検索に日本書紀成立に関わったであろう人物を登録した。
20180427_182742
・681年の川嶋皇子から平群臣子首までの12名は天武天皇が記録を命じた時に登場する人物
・續守言と薩弘恪は森博達氏が論ずるα群の執筆を行ったとみられる2名
・山田史御方は同じくβ群の執筆を行ったとみられる人物
・714年の紀朝臣清人と三宅臣藤麻呂は国史の編纂を命じられたと記されている2名
・舎人親王は天皇に日本書紀を撰上した人物
・末尾の書直智徳は最近注目している人物

こういう風に個々の人物を検索して追っていくと、いくつかのキーワードで結ばれていることに気づく。それが一番上に登録してある「日本書紀編纂関連記事」である。正規表現では以下のようになる。

帝妃|新字|儀鳳暦|音博士|學問新羅|撰國史|日本紀|文章

縦棒"|"は正規表現ではor(または)の働きをするので、この正規表現を検索することにより、上記人物たちが登場し、これらのキーワードにより結び付いていることがわかる。
この中で「新字」がまず重要。「新字」とは日本初の辞書。正式な国史を書くのに使用する文字や語句の基準は大切であったと思うが、682年からこの「新字」が使われ始めている。この辞書を作った境部連石積も日本書紀の編纂に関わった人物として注目されてよい。また、さきほどの「儀鳳暦」の渡来がこの時期なのは興味深い。

このキーワード群で検索すると日本書紀成立に関わる部分のみにヒットすることに気が付く。その他の関連部分にはこれらのキーワードは登場しないのだ。これはとても興味深い。

なぜこのような構成になってしまったのかということを類推すると、当時歴史書を編纂する手順としては各人物や事績などを木簡に書き記してゆき、それを編集していったからだと思われる。結果として、キーワードで検索していくと1300年前の作業を追体験するように浮かび上がってくるということだと思う。このキーワードを見つけることができれば、歴史が浮かび上がってくることになる。

■『日本書紀』編纂ゆかりの人物を【麻呂】の検索で辿る

多くの研究者が述べているように『日本書紀』は未完と思われる。各巻によって書き方がばらばらで、誰かがきちんと取り仕切ってきちんと書いたとは思えない形になっている。

例えば「山田史御方」という人物が記載される場合「山田史」は同じだが、「御形」「御方」「三方」と3通りの書き方になってしまっている。これらは意図的に一部の語句、この場合「山田史」で検索しなおして見つけることができる。ネットで検索して確認するのも有効だ。

もう一例を出すと「中臣連大嶋」という人物。
まず検索すると681年に「帝妃」に関わっていることがわかる。「帝妃」とは後に「国史」と言われるもととなるもの。
その後ろを検索すると同じく681年に石上麻呂等と一緒に表彰されている。ここでも麻呂との接点が見つかる。
以上3回の記載しか見つからないが、ネットで「中臣連大嶋」を調べてみると「中臣朝臣」「藤原朝臣」と姓を変えているとともに、「中臣渠毎の子」という記述も見つかる。
そこで『日本書紀』を『中臣渠毎』で検索すると1件の記載が見つかる。

安達。【安達。中臣渠毎連之子。】

これは653年の第二回遣唐使に参加していたメンバーとして記載されている。
このように、国史編纂に関連する人物を探っていくと必ず石上麻呂との接点があることに驚いてしまう。それと同時に白雉四年653年の第二回遣唐使は極めて重要な遣唐使だったということを改めて知ることができる。今までこの重要性を指摘していた研究者はいなかったと思う。
さらにここに登場する『安達』という名前は検索してもこの場所にしか登場しない。井之上麻呂がらみで登場する語句や人物は「その場所にしか登場しない」というパターンが実に多く意味深い。
これらの名称を正規表現として一連のキーワード化してあらためて検索するとこの人物の事績をたどることができる。
681年に大極殿で帝妃の編纂を命じられるが、多くのメンバーの中で

大嶋。子首親執筆以録焉。

と記されており、大嶋と子首の2名は自ら筆をもって執筆したと記されている。この2名は重要な役割だったことがわかる。
次に登場するのが先ほども見た通り、石上麻呂や粟田眞人と一緒に表彰されている。653年の遣唐使では学僧として粟田眞人と一緒だったことが記載されていたが、石上麻呂もそこに一緒にいたという推論は俄然真実味を帯びてくる。
この後683年に判官になる。
685年には褒美を賜っているが、『新字』の編纂者である境部宿祢石積と並んでいるのが興味深い。
686年の登場では石上政権のNo.3である大伴安麻呂と並んでいる。大嶋という人物は石上政権で大きな役割を担っていたメンバーの一人だったと思われる。
690年にはまた石上麻呂と並んで記載されている。
しかし、691年に登場後は日本書紀にも続日本紀にも記載はない。これだけ活躍した人物なのに死亡記事がないということは、この後何か問題があったのかもしれない。このあたりは、今後さらに分析を進めたい。

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