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2018-02-15

続日本紀:左大臣石上朝臣麻呂と平城遷都を実現した東国人たちの足跡

見附市学びの駅ふぁみりあでシリーズ開催されている「古代日本史講座」。
本日は「平城京遷都と日本建国の謎を解く」シリーズの第3回目、続日本紀の石上(いそのかみ)麻呂の記述にスポットを当てて、平城遷都に至る石上政権の樹立とバックボーンである東国人たちの活躍を解き明かしていくという内容。
(以下、一人称で記述していますが、関根先生の講義を私が聞き取ったことを書いています。間違いなどありましたらご指摘いただければ幸いです。)

【資料】平城京は、石上麻呂と東国人たちが造った!
01maro
このテーマについては講師の関根先生のメインテーマでもあり、本講座でもたびたび登場している。この資料はそのエッセンスをまとめたものであり、石上麻呂が引き上げていった藤原不比等とともに、多治比眞人三宅麻呂、下毛野朝臣古麻呂、阿部朝臣宿奈麻呂など、東国人勢力をバックに日本(やまと)を建国していったという内容を解き明かす。

■続日本紀での石上朝臣(あそん)麻呂の記述はエポックメイキング!

 続日本紀を「石上朝臣麻呂」(関連表現含む)で検索するとこのような出現状況となる。

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活躍した700年から亡くなった717年を中心に計16回の記述がある。
主な記述を辿ってみる。(赤字は原文)

  • 文武四年(700)十月己未(10月15日)以直大壹石上朝臣麻呂。爲筑紫総領。
    「筑紫総領」(博多方面の軍事総督)に任ぜられる。
    同時に「小野朝臣毛野」「波多朝臣牟後」「上毛野朝臣小足」という人物達も人事を受けているが、「小野」「毛野」「波多」「上毛野」など、関東地方にゆかりの名称を含む人物が同時に登用されているのが興味深い。
  • 大宝元年(701)三月甲午(3月21日)...中納言直大壹石上朝臣麻呂。直廣壹藤原朝臣不比等正正三位。...中納言正正三位石上朝臣麻呂。藤原朝臣不比等。正從三位紀朝臣麻呂。並爲大納言。▼是日罷中納言官。
    この日中納言の石上朝臣麻呂は正三位となり、その後直ちに大納言となった。中納言となったという記述はないので、→中納言→大納言と同一日に同時2段階昇進を受けていると考えられる。
    また、中納言は置かれない状況になった。通常では考えられないような人事が行われている。
  • 大宝元年(701)七月壬辰(7月21日)...左大臣正二位多治比眞人嶋薨。...遣三品刑部親王。正三位石上朝臣麻呂。就第弔賻之。正五位下路眞人大人爲公卿之誄。從七位下下毛野朝臣石代爲百官之誄。
    左大臣「多治比眞人嶋」が亡くなり、石上朝臣麻呂らが弔っている。「從七位下下毛野朝臣石代」という人物も名を連ねているが從七位下という下級の官僚が出てくることは異例である。その名前が「下毛野」であることに注目。
    この時点で石上麻呂はNo.2の位置になった。
  • 大宝二年(702)八月辛亥(8月16日)以正三位石上朝臣麻呂爲大宰師。
    「太宰師」(だざいそち)という役職に就く。この役職は大宝律令で制定された職で、大宰府長官に相当し、博多方面のトップ職になる。
  • 大宝三年(703)閏四月辛酉...右大臣從二位阿倍朝臣御主人薨。遣正三位石上朝臣麻呂等弔賻之。
    右大臣「阿倍朝臣御主人」の死去の際には筆頭で弔っている。このことは太宰師の就任は兼務だったのではないかと考えられる。
    右大臣の死去により、この時点で石上麻呂は実質上、政権のトップに立った。
  • 慶雲元年(704)正月癸巳(1月7日)詔以大納言從二位石上朝臣麻呂爲右大臣。
    右大臣に就任。同時に多くの人材を登用している。注目すべきは「長屋王」で、无位という位階がない状態からいきなり正四位上となった。家柄のおかげではあるが、石上麻呂がトップに就任したタイミングで貴族の仲間入りをしたというのは重要である。さらに古事記の編纂者である「太朝臣安麻呂」は正六位下から2段階、後の石上政権で重要な役割を果たす「多治比眞人三宅麻呂」は從六位上から3段階昇級し、從五位下の地位についた。
  • 慶雲元年(704)正月丁酉(1月11日)...右大臣從二位石上朝臣麻呂二千一百七十戸。大納言從二位藤原朝臣不比等八百戸。
    「益封」という褒賞が与えられている。皇族には一百や二百戸、藤原不比等には八百戸である中、石上麻呂には二千一百戸が与えられている。当時の力の大きさが垣間見える。
  • 和銅元年(708)春正月乙巳(1月朔11日)...從二位石上朝臣麻呂。從二位藤原朝臣不比等並正二位。
    律令では最上位の役職である左大臣には二位以上の位階が必要とされていた。この後3月に左大臣に就任するための準備の昇階が行われた。
  • 和銅元年(708)三月丙午(3月13日)...右大臣正二位石上朝臣麻呂爲左大臣。大納言正二位藤原朝臣不比等爲右大臣。
    この時点で名実ともに政権トップの左大臣となる。同時に石上政権の陣容がここで固まっている。「大伴宿祢安麻呂」が大納言、「小野朝臣毛野」「阿倍朝臣宿奈麻呂」が中納言などに就任して石上麻呂を支えている。
  • 和銅元年(708)七月乙巳(7月15日))召二品穗積親王。左大臣石上朝臣麻呂。右大臣藤原朝臣不比等。大納言大伴宿祢安麻呂。中納言小野朝臣毛野。阿倍朝臣宿奈麻呂。中臣朝臣意美麻呂。左大弁巨勢朝臣麻呂。式部卿下毛野朝臣古麻呂等於御前。勅曰。
    石上政権のメンバーが御前で勅(みことのり)を受けたと記されている。さらに4名を昇階している。平城京長官になる「阿倍朝臣宿奈麻呂」、石上政権の樹立に活躍した「下毛野朝臣古麻呂」などが含まれており、東国人が重要な役割を果たしていることがわかる。
  • 和銅三年(710)三月辛酉(3月10日)始遷都于平城。以左大臣正二位石上朝臣麻呂爲留守。
    ここは極めて重要である。
    まず、「始遷都于平城。」という記述であるが、従来、平城遷都は710に行われたと言われているのはこの記述によるものと思われる。しかし「平城において遷都を始める」と記されており、政治の中枢を藤原京に置きつつ遷都を開始したととらえるのが妥当だろう。
    また、「石上朝臣麻呂爲留守」という記述だが、「留守」という記述をもって閑職におかれたということが通説になっている。しかし、「留守」という言葉を漢字海で調べてみると、「唐代以降において、天子が都を離れた時天子の政務を代行する官」となっており、天皇が平城に移動したあとの実質の政治の中心を担っていた藤原京で天皇の代行をしていたという重要な役割だったことがわかる。
  • 和銅三年(710)秋七月丙辰(7月朔7日)左大臣舍人正八位下牟佐村主相摸瓜。

    【資料】相模国の調邸は、左大臣石上麻呂の経済的基盤だった。
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    平城京内の東市に接して相模国の調邸が設置されていたことが考古学的に見つかっている。また、後にそれが東大寺に譲渡されたという記録も東大寺の文書に残っている。調邸には物資運搬のための運河も整備されていたという。
    相模国の調邸があったのだから、ほかの国の同様な施設もあったのではないかとも論じられているが、いまだに見つかっていない。
    神奈川県藤沢市の地名には引地川近くに藤原、境川近くに石上という町名が残っており、この当時のつながりを感じさせる。
  • 養老元年(717)三月癸夘(3月朔3日)左大臣正二位石上朝臣麻呂薨。
    石上麻呂が亡くなる。この時に弔ったのが「長屋王」「多治比眞人三宅麻呂」「上毛野朝臣廣人」という人々。弔った人が後継者と考えられる。

    【資料】多胡碑の「羊」は、多胡建郡の申請者名だった。
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    現在の高崎市周辺の多胡郡を建置する申請が許可されたことを記念して作成された碑文が多胡碑と考えられる。都で口頭による通達を受けた郡領就任者が聞き取った内容を碑文に刻んだ。その内容に「石上尊」「藤原尊」と書いてあることから、左大臣石上麻呂、右大臣藤原不比等が列席していたことがわかる。
    ちなみに「尊」という記述は長岡市和島の八幡林遺跡から出土した木簡にも「長官尊」と記載されていたことから、当時敬称として広く使われていたことが明らかになっている。(多胡碑は申請者が建郡許可を記念して作成したことから敬称を使っていると考えられる。)

■日本書紀で石上麻呂のルーツを辿る

続日本紀で石上麻呂政権の樹立の過程を見てきたが、日本書紀でその名前を辿ると、若き麻呂の活躍の過程を見ることができる。

Maroshoki_2
壬申の乱の記述中に「物部連麻呂」として登場してから8か所の記述がある。

  • 天武天皇元年(672)七月辛亥(7月22日)...大友皇子走無所入。乃還隱山前。以自縊焉。時左右大臣及群臣皆散亡。唯物部連麻呂
    最初に登場するのが壬申の乱の結末場面。大友皇子が追い詰められ最後に自縊死する。傘下の官僚達は逃げ散ったが、物部麻呂だけが付き添っていたと。
    さらにこの短い事実の記述のあとに「初將軍吹負向乃樂至稗田之日。」と始まり、かなりの長文の記述が続く。このあたりの日本書紀の面白さは今後の日本書紀シリーズの講座で詳しく見ていく予定。いずれにしてもここでも石上麻呂の登場シーンは興味深い記述であることがわかる。
  • 天武天皇五年(676)十月甲辰(10月10日)以大乙上物部連麻呂爲大使。大乙中山背直百足爲小使。遣於新羅。
    4年前に天武天皇と戦った敵の大友皇子の死に付き添っていた物部麻呂は新羅大使に任命される。階位としては大乙上という上から数えて19番目の立場でありながら、これは大抜擢と言える。
  • 天武天皇六年(677)二月癸巳朔(2月1日)物部連麻呂至自新羅。
    大使として新羅に渡った翌年に帰国している。この間、新羅は唐に戦争で勝った、という重要な期間である。
  • 天武天皇十年(681)十二月癸巳(12月29日)...。粟田臣眞人。物部連麻呂。...小錦下位
    小錦下位という階位に7段階の昇級をしている。注目すべきは粟田臣眞人と並んでいること。
    並んで「智徳」という人物も昇級しているが、石上麻呂の命日に開かれた石動神社を開いたのが智徳上人。ここに一緒に登場しているのは何か意味があるのかもしれない。
  • 朱鳥元年(686)九月乙丑(9月28日)...次直廣參石上朝臣麻呂誄法官事。
    天武天皇が亡くなり、法官事として誄(るい、しのびごと)に携わっている。誄自体は大化改新で廃止されたが、ここで唐突に復活しているのが面白い。
  • 持統三年(689)九月庚辰朔己丑(9月10日)遣直廣參石上朝臣麿。直廣肆石川朝臣虫名等於筑紫。
    筑紫に赴いて新城の監督などを行っている。
    さらに同時期に天皇が高安城を視察したり、下毛野朝臣子磨が600人の奴婢を開放を奏上して許可された、という記述が淡々と並んでいるが、何かありそうだ。
  • 持統四年(690)春正月戊寅朔。物部麿朝臣樹大盾。...皇后即天皇位。
    持統天皇の即位に関して儀式に関わっている。「皇后即天皇位。」とあるが「即天」という文字がこの後の中国での「武則天」の即位という状況をかけているのか。情報通の石上麻呂もいることで、日本でもそういう状況が見えていたのではないか。
  • 持統十年(696)十月庚寅(10月22日)...直廣壹石上朝臣麿。直廣貳藤原朝臣不比等並五十人。
    持統天皇の時代に入っている。こののち石上麻呂の右腕として活躍する藤原不比等が「不比等」という名前で登場するのはここが初めて。それが石上麻呂と並んでの登場というのは重要である。

■律令国家日本(やまと)の誕生

続日本紀、日本書紀、両書で石上麻呂の軌跡を追ってきたが、彼が登場する場面というのは、エポックメイキングな出来事と常にかかわっている人物ということが一目瞭然である。
そういう人が左大臣になって平城遷都が行われて、715年に元明天皇から元正天皇に譲位されて未婚の女帝が作られた。律令制度、それを運営するための都、その権威の象徴としての女帝が誕生したことをもって、律令国家日本(やまと)が誕生したと言える。
さらにその流れを作ったのが石上麻呂であり、彼を強力に支えたのが藤原不比等である。そして彼らを支えたのが東国の人々ということだ。
日本書紀の27巻壬申記は、活躍したのは貴族だけではないということを表したという一面が大きい。天皇の戦いの記録なのに、名もない人たちの活躍も含めて書き連ねてある。壬申記は先行して書かれていて、日本書紀の中に発表の場が提供されたのではないかと感じる。

■「益封」の謎

続日本紀に「益封」という言葉が登場する。何か褒賞を与えるときに使われているが、そもそも「賜田」(しでん)や「功田」(こうでん)ということばかなり使われている。しかし、石上麻呂を追っていると、それらに並んで「益封」という言葉がたびたび登場することに気づく。
ネットで検索してみると「賜田」や「功田」の解説を見つけることができるが。「益封」という言葉に関して言及しているサイトは現時点では存在しない。現時点では注目されていないようだ。

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続日本紀で「益封」を検索すると、このように704年に初めて登場し、724年の記述が最後、ぱったりと使われなくなっているのがわかる。この時期というのは石上政権が色濃い時期と一致する。704年というのは石上麻呂が左大臣不在の右大臣になった後。724年というのは長屋王が左大臣に就任した時。
そして、その益封の対象として挙げられているのが内親王など皇族の女性が目につく。その狙いは反対勢力を囲い込むことにあったのかもしれない。
最後の724年の時は舎人親王と長屋王それに池森という人物の名前も入っている。舎人親王と池森は日本(やまと)国家を崩壊に導いたと思われ、よかれと思って実施した益封が反東国勢力の芽生えにつながっていたのかもしれない。
これらは、まだ現象の把握のみなので、今後の研究課題として取り組んでゆきたい。

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