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2018-02-01

日本書紀:遣唐使の実像と日本建国に果たした役割

見附市学びの駅ふぁみりあでシリーズ開催されている「古代日本史講座」。
本日は「平城京遷都と日本建国の謎を解く」シリーズの第2回目、日本書紀の遣唐使にかかわる部分にスポットを当てて、登場する人物像を探っていくことにより、日本建国の謎を解くという内容だった。

■日本建国に影響を与えた時期の遣唐使

 日本書紀によると、682年に日本初の辞書「新字」が編纂されたと記されている。
その編纂者とされる「境部連石積」関係の事績を古代史ビューア【麻呂】でたどる
と、白雉四年(653)の第二回遣唐使に同行した學生「坂合部連磐積」が見つかる。
 そして石積が編纂した「新字」は、『大宝律令』(701)『古事記』(712)『日本書紀』
(720)の制作に活用されたと推測でき、日本建国(715)等にも大きく貢献したと考えら
れる。

 このように、白雉四年(653)の第二回遣唐使は、歴史的に注目すべき事績であり、古代史ビューア【麻呂】を使って、その登場人物に関して検証していく。

【資料】遣唐大使吉士長丹(きしのながに)と日本書紀の第2回遣唐使部分

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 この部分の記述には大使として吉士長丹、副使として吉士駒、その他十数人の名前が記されている。

  • 吉士長丹(きしのながに)
    日本書紀で「吉士」を検索すると62回登場している。最初は463年に登場し、683年まで頻繁に出てきており重要な役割を担ったと思われる。しかし、その後はばったりと途絶えている。
  • 定惠(じょうえ)
    この名前の後に次のような注が加えられている
    【定惠。内大臣之長子也。】
    「内大臣」とは中臣鎌足を指し、それの長男ということ。
    ちなみに鎌足の次男は後の藤原不比等。
  • 道昭(どうしょう)
    この名前を検索すると続日本紀に「道照」という字で700年に物化際の分量の多い記事が登場する。(有名な行基は、道照の弟子である。)
    道照和尚物化。:道照和尚が死去した。
    適遇玄弉三藏。師受業焉。三藏特愛。:玄弉三藏(三蔵法師)に出会い、教えを受け、とても愛された。
    天下火葬從此而始也。:世の中でこれに倣って火葬が始まった。
  • 道觀(どうかん)
    この名前の後に次のような注が加えられている
    【道觀。春日粟田臣百濟之子。】:春日粟田臣百濟(かすがあわたのくだら)の子供
    後に俗世して粟田真人となって活躍する。
  • 坂合部連磐積(さかいべのいわつみ)
    後に「新字」という日本初の辞書を編纂し、古事記、日本書紀などの質の向上に寄与した。

【資料】654年第3回遣唐使の記述

Image1

第2回遣唐使の記述の最後に「伊吉博得言。」という割注がある。伊吉博得(いきはくとく)が言うにはということで、何人ものメンバーの消息が記述されている。唐で死んだり、海で死んだりした人が多い中、第2回遣唐使で渡った定惠などが劉徳高の船(665)に同乗して帰ってきた。

その中に「別倭種韓智興」の名がある。「倭種」とは、混血児のこと。伊吉博得書には、何度も韓智興(かんちこう)という人物について“特別”に触れられている。

【資料】659年第4回遣唐使の記述

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この第4回遣唐使に関する記述は

「遣小錦下坂合部連石布。大仙下津守連吉祥。使於唐國。仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子。」

という短い記述の後。「伊吉連博徳書曰。」で始まる長い注が続く。その中で第3回の記述に出てきた「韓智興」についてまた記述があり、

「韓智興■人西漢大麻呂枉讒我客。々等獲罪唐朝。巳決流罪。前流智興於三千里之外。客中有伊吉連博徳奏。因即免罪。」

と記されている。韓智興は冤罪で三千里のかなたに流罪となった。しかし、伊吉連博徳が訴えて罪を許される。唐代の三千里は1200~1500キロほどで、流刑地は敦煌と考えられる。韓智興という人物は、遥か彼方の敦煌に流され戻ってきたらしい。

■日本建国に貢献した学僧や学生たち、そして麻呂、不比等につながる

 この時代の遣唐使の登場人物を検証してわかったことは、後代、日本建国に貢献したのが、大使や副使ではなく、同行して唐で苦学した学僧や学生たちだったこと。
 例えば、第二回遣唐使で唐に渡った道観は、大宝元年(701)「粟田朝臣眞人」として遣唐執節使に任命されて周に渡り、武則天に謁見している。

 さらに、別倭種韓智興と記される混血児は、後の左大臣・石上麻呂であり、彼こそ日本建国(715)を成し遂げた中心人物である。
 石上麻呂政権のパートナーとして日本建国を果たした藤原不比等は、第二回遣唐使(653)として渡唐した定惠の弟。麻呂(韓智興)は、定惠と共に渡唐、共に劉徳高の船(665)で帰国(665)しており、その縁で麻呂は不比等を後継者として育てあげたと考えられる。
 麻呂と不比等は、二人三脚で律令制度を構築(701)。石上政権を樹立(708)して、平城遷都を実現(710-715)。権威の象徴である未婚の女帝・元正天皇を擁立(715)し、律令国家「日本(ヤマト)」を建国した。

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