2018-05-22

「コーヒーの新常識」春講座3回目

見附市学びの駅ふぁみりあで3回に渡って開催される「コーヒーの新常識」春講座。本日、その第3回目(最終回)に参加した。

本日のテーマはアイスコーヒーのおいしい淹れ方と、コーヒーの薬理効果

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いつものようにウエルカムコーヒー。今日はマイルドアメリカンで焙煎したもの。

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そして、講師手作りのコーヒーゼリー。コーヒーのおいしさがたっぷりつまった贅沢なゼリーだった。

■アイスコーヒーのおいしい淹れ方

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実習はアイスコーヒー。アイスコーヒーには水出しで淹れる方法と、通常のドリップで淹れる方法とある。本日行ったのは通常のドリップで淹れる方法。ドリップだが、いくつか注意点がある。

・アイスコーヒー用の深入りの豆があればそちらが望ましい。
・挽き方は細かく粉状にする。
・お湯はほとんど沸騰状態の熱いままドリップする。
・3分以上かけてコーヒーのエキスを十分に落とす。
・サーバーを水につけて粗熱を取ったら冷蔵庫で数日間保存可能。(すぐに氷で冷やして飲んでももちろんよい)

これらは、清涼感(苦み)のあるアイスコーヒーにするための方法となる。
ちなみに、喫茶店などでよく見かける水出しコーヒーであるが、お湯でしか抽出できない成分が出なく、苦みだけのストレートな味が特徴。実際、先生が同じ豆から作ってこられた通常ドリップと水出しコーヒーを飲み比べたところ、通常ドリップのものは遥かに複雑な味がすると感じた。

■コーヒーの薬理効果

特に近年、コーヒーが体に良いという話を聞くようになった。今日の講座で印象に残ったトピックス。

・カフェインは自律神経を活性化する。しかし、やる気ホルモンであるコルチゾールは朝、昼、夕に多く分泌されるが、カフェインがコルチゾールの働きを抑止することとなるので、朝起き抜けの一杯よりも、10時や3時のコーヒータイムの方が理にかなっている。

・赤ワインがグラスあたり230mgのポリフェノール(抗酸化物質)を含んでいるのに対し、コーヒーはカップあたり280mgのポリフェノールを含んでいる。1日当たり摂取した方がよいポリフェノールの量は1000mgと言われているので、コーヒーであれば3~4杯が適量になる。

・コーヒーの薬理効果はいろいろ言われているが、薬として飲んでも効果はない。楽しくおいしく飲んで初めて体に良い効果が出る。

・全死亡リスクが下がるとか血圧が下がるとかいう効果は、摂取しない場合に比較して摂取するとどれくらいの比率で効果があるか、という数字で公表される。それは飲めばただちに効果が目に見えてある、ということにはならないので、数字のマジックに陥らないように理解しないといけない。

春の講座はこの3回で終了だが、また秋に実施されるそうだ。今度は焙煎の話題を取り上げられるということ。楽しみだ。

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2018-05-21

雪国植物園

五月晴れといった形容がぴったりの今日、長岡市の雪国植物園に出かけてきた。

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園内はかなり広く、里山一帯を自然植物園にしたというような感じ。一蹴したがゆっくり歩いて3時間ほどかかる。東京どーぶ7個半ほどの広さということだ。

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年間を通していろいろな花が咲くが、やはり5月は種類豊富だ。入り口の掲示板には今咲いている花を写真付きで紹介している。

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植物音痴で知られる私だが、わかる範囲で名前を紹介したい。・・・けど、最初からこの花、わからない。

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ヤマボウシ?(違うかも)

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ツツジがあちこち咲いていた。

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広い園内には案内地図に掲載してある番号が分岐点などに掲示してある。これを頼りに歩かないと迷子になりそうだ。

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東口近くにある展望広場。

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今のおすすめ、ヒメサユリ。

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ミヤマナルコユリ。

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ガクウラジオヨウラク(違うかも)

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ノアザミ。

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展望台へはかなりの勾配を登る。

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守門岳を中心に東山の山並みが一望できる。

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岩野城跡。戦国時代くらいのお城だろうか。のろし台があったというから、かなり高い位置である。ここが植物園の一番奥まったところで一番高いところだ。

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一気に降りると湿生植物園となる。カキツバタが見ごろだ。

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東屋で草団子をいただきながらドリップコーヒーで休憩。

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苗の販売もしていた。ヒメサユリの苗なども売っていた。

四季折々の花が楽しめそう。また来てみよう。

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2018-05-19

『エクセル VBA入門』講座開催

本日、『エクセル VBA入門』と題した講座を開催した。今日と来週と2日間の予定で行う。

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エクセルVBAというニッチなテーマにどれくらい集まっていただけるか心配していたが、最終的に4名の方から参加していただいた。
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今日はマクロ機能とはどんなものなのかを体感してもらうことと、一番シンプルなマクロを0から自分で作成するところまでを覚えていただいた。VBAマクロの第1歩だ。ここを歩み出せれば、次回のワークシート操作のマクロ作成も大丈夫。

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2018-05-14

都響プロムナードコンサート 今年も始まる

今年も都響プロムナードコンサートの定期会員になりました。3年目になります。

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夕方にかけて天候が荒れて雨になるとの天気予報でしたが、コンサート開始の14時はなんとか持ってくれました。会場のサントリーホールにはすでに多くの人たちが集まっています。


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2018年度の第1回にあたる今日は、フィンランドの若手指揮者クラウス・マケラがシベリウスを聴かせてくれます。

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指揮:クラウス・マケラ
ピアノ:ルーカス・ヴォンドラチェク
管弦楽:東京都交響楽団
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シベリウス:レンミンカイネンの帰郷 op.22-4
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 ト長調 op.58
(アンコール ブラームス:6つの小品 op.118-2 間奏曲)
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シベリウス:交響曲第1番 ホ短調 op.39
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20代前半だという指揮のクラウス・マケラ。一言で言ってはつらつとしていた。「レンミンカイネンの帰郷」も交響曲第1番も、鮮烈と言っていい演奏だったと思う。都響は彼によく応えていた。

ルーカス・ヴォンドラチェクというピアニストは名前も聴いたのが初めてだったが、透明な音色、音楽だったと思う。ピアノ協奏曲というと大きな音で響かせることが多いが、今日のベートーベン4番は、とてもクリアの温かかった。

コンサートを終えて、こんなに気持ちが落ち着く感じになったのは珍しい。シベリウスの交響曲は管楽器やティンパニーがフォルテで響き渡らせるところが多いのだけど、そして確かにそうだったのだけど、心が洗い流されたような余韻が残ったコンサートだった。

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2018-05-12

MOS Excel 2016 Specialist 合格!

MOS(マイクロソフト・オフィス・スペシャリスト)という認定試験があります。Excel,WordなどMS Office製品のスキルをマイクロソフト自身が認定する試験です。今日、Excel 2016 スペシャリストを受験してきました。結果はその場で表示され、なんと満点合格でした!

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今年に入って、悠々ライフという組織が開催しているExcelとWord教室のお手伝いをしているのですが、長年使ってきたExcelでも知らない機能があったりして、一度体系的に学んでみたいと思っていたんです。ただ学ぶだけでは面白くないので、MOS合格を目標にしてみたということです。
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上の写真の市販テキストを1冊購入し、解説部分をすべて目を通し、付属の模擬試験CD-ROMを繰り返し実施しました。最初は50分の制限時間内に終了できず50点くらいでちょっと焦ったのですが、できなかった部分を徹底的に復習し、回答方法もコツみたいなものがわかってきて、自信をもって受験に臨むことができました。

この夏にはWord 2016 スペシャリストを受け、秋にはAccess 2016 スペシャリスト受けようかと思っています。そして、その後はExcelとWordのエキスパート試験にも挑戦したいな。

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2018-05-10

『日本書紀』を読む(1)神々の物語と邪馬台国

見附市学びの駅ふぁみりあでシリーズ開催されている「古代日本史講座」。
全17期の『日本書紀』成立1300年!その謎を解くシリーズ。今回はその第3回「『日本書紀』を読む(1)神々の物語と邪馬台国」と題して、『日本書紀』に描かれている神話の概観と邪馬台国をめぐるいくつかのアプローチやトピックスを紹介する。
※以下「私」と記述している部分は関根先生のことを指しています。

■日本神話の概観

日本神話は『古事記』と『日本書紀』が合わさった形で明治時代の頃から言われるようになった。そもそも「神話」という言葉は明治時代あたりから使われ始めており、古い日本語ではない。
したがって、語っていることはいつかわからないような日本の大昔の内容だが、「神話」という言葉自体も新しいし、現在知られている日本神話は本居宣長が『古事記』を読みやすくして出版してから広まった内容なので、200年ほどの歴史しかない。

見附市に名木野という地域があるが、ヤマタノオロチ伝説が伝わっていて、現在でも名木野小学校では「草薙龍」という児童劇を行っている。日本神話はそんな身近な存在にもなってきている。

【資料1】資料紹介 Aera Mook 『日本神話がわかる。』(朝日新聞社2001)
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冒頭に「日本神話はシンフォニーだ。」というコピーを大きく掲げているように、新鮮な視線で編集されている。世界には様々な神話が伝えられているが、本質的に似通っているところがあり日本神話も例外ではない、というような視線をもって編集されている。
目次を引用してあるが、代表的な7人の登場人物についてや文化・芸術などの各分野から見たエッセイなどでなかなかよくまとめられている。

しかし本講座では、こういう内容については取り上げない。また一般的な日本神話についても取り上げない。そういう本は沢山でている。本日もミニ古本市に関連図書を持ってきているので、興味のありそうなものを一冊読んでくれれば十分だと思う。

■『日本書紀』の原典をあたる

歴史の研究で一番大切なのは、研究資料の原典を自分自身の眼で読むこと。
原典をあたりたい、研究したいという場合は、前回紹介した岩波文庫版『日本書紀』がよいと思う。
本格的に研究するなら、写本(影印)などで内容確認する必要がある。

本日は、私が所蔵している古写本を紹介したい。実物も持参している。

【資料2】『日本書紀』 古写本 関根 聡所蔵
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江戸時代に写本されたものと思われる。本文の余白には自分で研究したと思われる書き込みがびっしりと書き込まれている。
以前、ネットで売りに出されているものを手に入れたのだが、京都の神社で見つかったものとのこと。書き込みに本居宣長などの名前が出てこないので、おそらく1600年代の半ばから江戸時代中期にかけてのものだと思われる。
資料に紹介したのは第一巻 第一段一書第二~六の部分であるが、その部分を古代史ビューア【麻呂】で見てみる。

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【麻呂】の基本機能として登録文字の強調表示がある。強調したい語句を複数登録できるが、さらにそのグループをひとまとまりとして複数のグループを作ることができ、簡単にグループを切り替えることができる
。さらに強調語句一覧の横にはテキスト中に該当する箇所の件数が表示される。
神代記のこの部分(巻第一の第一~第四段)に登場する神の名前をすべて強調表示に登録してみると面白いことがわかる。伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冊尊(イザナミ)を除いて、ほとんどの神が三段までに1回または2・3回しか登場せず、しかも四段以降には登場しない。三段までと四段以降の間には長い時間が存在することがわかる。

また、ここに登場する神様の中で「天御中主尊」(アメノミナカヌシ)は、古事記では一番最初に登場する神であり重要である。『日本書紀』では登場する神々の中に埋もれてはいるが「高天原」という言葉とともに出てくるように位置づけは古事記と一致している。
そのことより次のようなことが言える。『日本書紀』に書いてある「一書曰」(いっしょいわく)は「違う資料にはこのように書かれている」という意味だが、その中に『古事記』と同じ伝承が含まれている。つまり『日本書紀』の編纂時、『古事記』と同じ伝承を入れなければならなかった事情があった。『古事記』編纂の中心になった豪族グループの人たちが、『日本書紀』編纂時に政治的な力を持っていたということだと思う。
「一書曰」で始まる三段までの記述とイザナギ、イザナミの物語が始まる四段との間には、こんなところからも大きな時間的溝があることがうかがえる。

次に五段から八段までに登場する神の名前を登録した強調表示グループに切り替えてみる。
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こちらもたくさんの神様が登場するが、この五段から八段の部分にのみ登場し、それ以前にも以後にもほとんど登場しないことがわかる。つまり、ここでも時代が違うということが明らか。

以上より、『日本書紀』に書かれている神様のことを考えるとき、最初に多くの神々が出てくる時代、次にイザナギ・イザナミが活躍してから、さらに五段以降の神様たちというのはまた違った形で動き始めていることがわかる。スサノオなどはこの時に出てくる。
つまり、そういうことを無視して同系列に扱うべきではないのではないか。きちんと時代なり背景なりを踏まえて語るべきではないかと考える。

私は神話を扱うときも日本の歴史としていつ誰がどこで何をしたか(5W1H)ということを踏まえて語るべきだという立場をとっている。一般的な神話の取り上げ方をこの講座では扱わないのはそのような理由からである。

神話の部分については本日ここまでにするが、今後この講座では2020年の『日本書紀』成立1300年に向けて部分部分を掘り下げていく予定なのでまた取り上げることになると思う。そして、テレビや書籍など多くのメディアでも1300年に向けて『日本書紀』が取り上げられることが増えていくと思うので、それらと比較してもらえると面白いと思う。

■『日本書紀』と邪馬台国

邪馬台国があったのは3世紀頃であり、『古事記』や『日本書紀』の神話の最後あたりに近い時代である。「邪馬台国」「卑弥呼」は中国の『魏志倭人伝』に登場している。『日本書紀』の中に「邪馬台国」や「卑弥呼」が出てきてもよさそうだが、実際は登場してこない。しかし古代史ビューア【麻呂】で『日本書紀』を「魏志」で検索すると、神功皇后摂政三九年(己未239)条等に「魏志」が検出される。そこに記される明帝景初は、西暦の239年~243年。ちょうど邪馬台国の時代になる。『日本書紀』の述作者が『魏志』を読んでいたことは明らかで、「邪馬台国」や「卑弥呼」の記述も知っていたはずである。

では、なぜ「邪馬台国」「卑弥呼」は書かれなかったのか。
「邪馬台国」「卑弥呼」に対する態度が神話部分に対する態度に反映されているのではないか。つまり知っていてもあえて無視していると考えられる。歴史書(特に政治家が主導したもの)は自分の都合のいいように書き、都合の悪いものは書き表さない。(詳しくは後程触れる)

■『まぼろしの邪馬台国』

邪馬台国が日本でさかんに話されるようになったのは江戸時代からで、300年くらいの歴史があり、いろんな説が出ている。
本日はそのうちいくつかを取り上げるが、古田武彦説は取り上げない。その古田氏と大論争を繰り広げたのが安本美典氏で、以前は私もかなり影響を受けていた時期があったが、最近は距離を置くようになった。その二人による論争も今日は取り上げない。

本日取り上げるのはまず宮崎康平氏。

【資料3】資料紹介 宮崎康平『まぼろしの邪馬台国』第2部(講談社2008)
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九州の有明海に生まれ育ち、そこの鉄道会社を運営された経歴の持ち主であるが、失明され、奥様と一緒に邪馬台国研究の活動をされた。その姿は奥様役を吉永小百合が演じて10年ほど前に映画になったのでご存知の方も多いと思う。
この方の研究では邪馬台国は結果的に自分の故郷の有明地方にあったという結論にたどりついた。そもそも早稲田大学で津田左右吉に学んだこともあり、ただ単に古代史に没頭したということでなく、冷徹に物事を見つめる目も持っていた。ただ50年前の論調なので、邪馬台国論争は地域主義に陥る傾向があり、そういう要素も含んでいることは否めない。
しかし、古代史に生涯をささげた一人の人間としての存在は魅力的であり、文学を目指していたということもあり、読んでいて楽しい本。

■『邪馬壹国は新潟県であった!』

新潟で邪馬台国を語る上では外せないのが桐生源一氏。

【資料4】資料紹介 桐生源一『邪馬壹国は新潟県であった!』(玉源書店1985)
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『魏志倭人伝』の写本によっては「邪馬台国」ではなく「邪馬壹国」と書かれているものがあり、桐生氏は「邪馬壹国」説をとる。しかも「やまいつこく」と発音し、越後は古くから「え」と「い」の発音が逆になることが多く「やまえつこく」→「山越国」であったとする。

この本のP16に掲載されている「邪馬壹国比定地」の図を資料に引用した。これをみると山間部が多いことがわかる。また、フィリピンやスマトラを含めて各地にちらばっている。そういうところは「徐福」の伝説に似ている。このように各地で伝説的に語られるというのは、伝説の元になった種本の記述があり、それを自分の地域の話に持ってくるという形が多い。

桐生氏の主張は、邪馬壹国は栃尾にあって、そこの女王が卑弥呼である、ということだ。さらに、古代中国の百越の人々が世界中に渡り100以上の国を作り、栃尾の山越国もそのひとつと主張している。これは以前の講座で私が徐福の話をしたときに、日本人と百越との関わりについて述べた内容と通じるところがあり、一部共感するところがある。紀元前の日本には、秦から渡来した百越の女性を祖とする人々が各地に住んでいたと思う。

■松本清張の主張 邪馬台国の位置は? 1990年頃の学説と風潮

【資料5】資料紹介 松本清張『吉野ヶ里と邪馬台国』(NHK出版1993)
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さきほどの桐生氏の本で紹介されていた「邪馬壹国比定地」と同じ位置づけのまとめがこの松本清張氏の本に載っているので資料に引用した。各説について、簡潔にかつ具体的にまとめられており、作家、古代史研究家として松本氏の力量が感じられる。
松本氏の立場は、「邪馬台国は九州北半部のどこかであったらしい」としているが、「今後よほどの物的証拠があがらないかぎり、わかりようもない。」とも記している。

私もそう思う。そもそも「邪馬台国」については古代中国で魏の史家がそう言ったという記録であり、そんな名前の国は古代日本になかったと思う。自分を馬鹿にするような名前を自分で名乗ることはない。中国の人が勝手にそう呼んだ名前であり、『日本書紀』に載せなかったのは当然だと思う。ただ中国の人が「邪馬台国」と呼んだ国があったのは九州北半部のどこかだったという松本清張氏の主張には同感である。

■邪馬台国の謎を解くカギを握る『魏志』倭人伝

【資料6】資料紹介 別冊宝島2465『邪馬台国とはなにか』(宝島社2016)
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この資料では最近古代史関係でよい本を出している宝島社の2016年発行のムック『邪馬台国とはなにか』を紹介している。
この本の素晴らしいところは、邪馬台国のいろいろな説について、その人たちに直接書いてもらったりインタビューをしたりして紹介しているところ。

その中で武光誠氏の説を紹介したい。武満氏が言われるように邪馬台国のカギを握るのは『魏志』倭人伝である。
『魏志』倭人伝を研究する場合は岩波文庫版『魏志倭人伝』がよい。訳文や解説に加え、原文(印影)も掲載されているので、これ1冊あれば研究を始めることができる。魏志倭人伝については、このムックと岩波版があれば十分かもしれない。

魏志倭人伝について近年明らかになっていたことは、正確な記述といい加減な記述とごちゃまぜになっているということ。その部分を見極めないと研究の方向が誤ってしまう。
武光誠氏が書かれているのは、日本の女帝が魏の国に使いを送り、それに対して金印が贈られたのは事実だろうということ。つまり「邪馬台国」と呼ばれた国が日本にあったのは間違いないだろうし、女王がいたということも事実だろう、ということである。逆にいい加減に書かれていることは何かというと、国の名前や距離だという。したがって昔、距離の記述から邪馬台国やその他の国々の位置を探るというような論考が流行ったことがあるが、それらは意味がない---この本を読むとそう感じる。

要は歴史書であるので、本当のこともあれば嘘のことも書かれている。それらを見極めていくことが歴史研究であると私は考えている。この本でも武光誠氏を含めて複数の方がそういう見方をされている。
おもしろいのは、そのように魏志倭人伝に対するスタンスが同じにもかかわらず、結論が分かれているということ。武光氏は九州説をとっているが、他の方は近畿説となっている。

■よそ者「卑弥呼」がヤマト政権のもととなった?

最近武村公太郎という方が、地形から歴史を読み解くという見方を提案されている。

【資料7】資料紹介 武村公太郎の「地形から読み解く」日本史(宝島社2015)
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ここに引用した内容は、現在の奈良の中心部に巨大な湖があったとする説である。
藤原京と平城京の間はほとんど湖だったという。その根拠は、地形がそのようになっていることはもちろんだが、豪族たちがその周囲に分布していることからも言える。

もともと湖になったのは地殻変動などの災害により大阪湾に流れ込む部分が埋まって水がたまったものと考えられるし、その後湖が縮小していくのも災害により水が流出していったものと思われる。

奈良という土地がこういう場所だったという認識があるかないかで歴史の見方が変わる。邪馬台国が近畿にあったとすれば水辺だっただろうし、橿原と呼ばれているところも湖に面していたと考えられる。湖周辺にいた豪族たちは、湖が縮小するにつれ開墾していき、勢力を伸ばしていったと考えられる。

卑弥呼の時代を探るにはこのような認識を踏まえるべきだと考える。

どうして奈良が古代の中枢になっていったかということについて、地理的な条件で考えてみたい。たとえば新潟県の上越市。武士の町である高田と漁師の町である直江津と一緒になって上越市ができたわけだが、現在の市役所のあるあたりは以前は誰も近寄らないような土地だった。しかし、両地区の中間点ということで現在は上越市でもっともにぎわっている地域になっている。同じようなことが三条市と燕市の間でも言える。新幹線や高速道路が両市の中間を拠点とし、現在ではたくさんの人たちが集まる場所になっている。

奈良はどうだろう。山に囲まれぱっとしないような土地条件だが、東からも西(九州)からも、日本海側からも行きやすい。倭国の大乱後、ばらばらだった日本がまとまっていく時期に、奈良湖の水が抜けていった。人為的に水を抜こうという動きがあったのかもしれない。交流の拠点が次第に繁栄し、ヤマト政権の元になっていったと思われる。

その初期段階ではよそ者が牛耳っており、その象徴が九州からやってきた卑弥呼と呼ばれる女帝だったのではないか。当時の有力な豪族は、近畿ではなく関東と九州にいたと私は考えている。
しかし、それは後世の政権にとっては認めたくない事実であり、それゆえ『日本書紀』に卑弥呼の存在を記載しなかったのではないだろうか。

■新潟にもあった倭国大乱時の痕跡

【資料8】資料紹介 『長岡・柏崎の歴史』(郷土出版社1998)
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本書の序文に「大宝二年(702)には、越中国から頚城・古志・魚沼・蒲原の四郡が越後国に編入されて、越後国ができあがった。この古代の古志郡に包括される範囲が、本書の対象とする区域である。」と記されている。古代の「倭国大乱」時に防御機能をもったムラが新潟平野の信濃川流域に集中するということを表した地図が掲載されており、資料に引用した。九州や瀬戸内・近畿に頻発したとされる倭国大乱であるが、北陸地方を経由して古代古志郡にも余波が伝わっていたことがわかる。

本書で広井造氏が書かれているが、この本を作った当時、このようなムラの遺跡は東山丘陵周辺で見つかっていることに触れ次のように結んでいる。
「信濃川の流域はムラを構えるには不便な反乱地帯だったが、西山丘陵は文化の受け入れ口として大きな役割を果たした日本海に近く土地も安定していたので、今後新しい弥生のムラが見つかる可能性が高い。」

本日の講座の最後にそれが実現した話題をお伝えする。
次のYouTubeの動画を見ていただきたい。



柏崎の西岩野というところで弥生時代の大型掘立柱建築物が発掘されたという話題。さらにその周囲にある墓の跡や勾玉やガラス玉などから、ここには巫女が埋葬されていたと考えられるという。

私自身は邪馬台国は九州にあったと感じているが、全国的に「日巫女」(ひみこ)と呼ばれる人が存在していたと考えている。古志地方にあったのが、今回見つかった西岩野遺跡と考えると面白い。
日本という国は女性が政治の補佐をするというしくみが、それこそ神話の時代からあったと考えているが、それを裏付けるものがこの近くで見つかったというのはうれしい。

【資料9】西岩野遺跡現地説明会 参加報告
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■本日のまとめ

古代中国の魏で「邪馬台国」と呼ばれた国は、九州にあったのではないかと思う。倭国大乱を治めるとき、各地の首長たちが古代奈良湖のほとり(纏向辺り)に集まって代表を決めた、その代表が「卑弥呼」だったのではないか。
つまり、「卑弥呼」はもともと九州の首長だったが、集まった奈良湖のほとりで連合政権的な代表に選ばれたということである。以降、そこに留まっていたのか、九州に帰ったのかは判断できない。
『日本書紀』は、「卑弥呼」を一人の人物として書くのではなく、何人かの人物として誤魔化して書いているという気がする。

■磤馭慮(オノゴロ)島地図を復元

【資料10】越後通信(2012年6月5日号)より「淤能碁呂嶋図」

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『古事記』では「淤能碁呂嶋」、『日本書紀』では「磤馭慮島」と記されている神代の日本。その地図を復元したのがこの資料。
古代日本において方位の基準は南であり、南を上に地図を描くなど、私の研究成果がいろいろと反映されている。今後、神話の時代や古代日本を考察する際、是非活用していただきたい。

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2018-05-08

「コーヒーの新常識」春講座2回目

見附市学びの駅ふぁみりあで3回に渡って開催される「コーヒーの新常識」春講座。本日、その第2回目に参加した。

本日のテーマはペーパードリップのおいしい淹れ方。

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本日もウエルカムコーヒーに講師手作りのプリン、クッキー、チョコレートなどいただきながらの受講。

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今回もハッとするような知識がちりばめられた講座だった。

■コーヒーは新鮮さが大事、値段や銘柄で選ぶより、自分の味覚・嗅覚に合った美味しいものが体にもよい
これは前回も強調されておっしゃっていたことだ。まずは新鮮でなければ何をしてもおいしいコーヒーは手に入らない。新鮮なものを入手さえすればおいしさは確約されたも同然、あとは自分の好みに合うものを探そう。

■サーバー、ドリッパー、ペーパー、メジャースプーンは同一メーカーで揃えよう
各メーカーで設計思想が異なるので、当然形も量も異なる。同じメーカーの器具で揃えなければ美味しいコーヒーは手に入らない。

■水は水道水が一番良い
日本の水道水は25℃、PH7で調整されており、飲み水として理想的。塩素は沸騰させれば飛んでしまう。気になるようであれば一般的な浄水器を使えばよい。
また、蛇口から水を汲むことにより水に空気が混ざる。酸素や二酸化炭素が適度に混ざった水はコーヒーの抽出に適している。

■欧米人はアロマ、日本人はフレーバーを好む
コーヒーの香りは3段階で味わえる。まず最初は豆を挽いたときに出るフレグランス。ここで香りの6割ほどが放出される。次が淹れた時に空気中に香るアロマ。これは鼻で感じる。最後が飲んだ時にコーヒーの液体中にある香りフレーバー。これは口の中で感じる。
欧米人は飲むときに鼻で感じるアロマを好む。日本人は飲んだ時に口の中で感じるフレーバーを好む。

■ドリップは蒸らしと落下の2段階を意識する
まず全体にお湯をのせて蒸らす。これは粉の中のコーヒーエキスを表面に抽出させている時間。新鮮な豆なら10から20秒ほど、そうでなければ1分ほど蒸らす。蒸らしの後は粉の表面に出てきたエキスをカップに落とす工程。2回~3回くらいに分けて注ぎ、開始から3分を越えないようにする。3分を越えると雑味を抽出させてしまう。サーバーの規定量に達したらドリッパーにお湯が残っている状態でサーバーから外す。残っているのは雑味のみなのでカップに入れてはいけない。

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これはアメリカでもっとも普及しているパーコレーター。器具内に入れた粉を何回もお湯が循環して抽出する。飲んでみたが、ちょっと粉っぽく感じた。特に苦みが強いという感じではなかった。

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これはエスプレッソ。パーコレーターと構造は似ているが、粉を細かく挽いて、お湯の循環は1回のみ。

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最後が最も新しい方式アエロプレス。フレンチプレスのような感じだが、器具内に圧力をかけて抽出する。

今回もとても楽しかった。次回は最終回。アイスコーヒーがテーマだそうだ。

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2018-05-04

アレクサンドル・クニャーゼフのチェロコンサート

連休後半は東京で過ごしている。

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ゴールデンウイークと言えば音楽会ではラ・フォル・ジュルネ。有楽町の東京フォーラムを舞台に3日間に渡ってさまざまなコンサートやイベントを手軽に楽しめる。

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ホールB7で行われる、アレクサンドル・クニャーゼフのチェロを聴きに来た。早めに到着したので会場をぶらぶらとしてみる。

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たくさんの人たちが楽しんでいる。

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まだ時間があったので1Fのドーナッツプラントでコーヒー&ドーナッツを。

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会場はホールB7。エスカレーターで延々と7Fまで上っていく。

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会場はイベントホールのような感じ。なかなか落ち着く感じで室内楽にはよい環境だと思う。

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チェロ:アレクサンドル・クニャーゼフ
ピアノ:ボリス・ベレゾフスキー
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ラフマニノフ:チェロ・ソナタ ト短調 op.19
ラフマニノフ:ヴォカリーズ
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妻がクニャーゼフのファン。実にたっぷりと歌い上げる。
もっとも見た目は腹の出たおじさん風なのだが、この方、実にすさまじい経歴の方なのでした。幼少の頃からチェロの才能を開花させていたのですが、両手の筋力が衰えるという難病にかかって5年ほどのブランクの末乗り越える。その後もコンクールで輝かしい成績を収めるまでに復活し、ピアニストの奥さんも得て多くの人に愛される演奏家になります。ところが演奏旅行の最中に交通事故で最愛の奥様とチェロを失ってしまうという悲劇に。それでも周囲の援助を得て現在の活躍の状況になりました。ちなみにチェロの他にもオルガン奏者でもあるそうです。

モップのような髪(カミさん談)を振り乱しながらのラフマニノフはエキサイティングでした。ヴォカリーズは繊細な音色も聴かせてくれました。

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演奏後は、イベント会場に立ち寄り、ローランドや楽器店のブースを覗きます。

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ちっちゃな坊やがチューバに興味を持ったよう。

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そして有楽町を後にして板橋に戻り、地元のカレー屋さんでディナー。
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ガーリックナン&ベジタブルカレー。よい組み合わせでした。

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2018-04-30

角田山山歩き

連休前半の中日、友人と二人で角田山を歩いてきた。とても天気が良く。気持ちの良い一日だった。

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角田山には7つの登山コースがある。車で行くとどうしても同じコースの往復になりがちだけど、春の登山シーズンに限り「角田山周遊登山バス」が運行されている。それを利用して灯台口から登り始め、ほたるの里登山口に下山するというコースをとった。

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ほたるの里コースの駐車場。

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第1駐車場と第2駐車場とあり、到着した午前9時頃にはすでに多くの車が駐車してあった。

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クルマをここにおいてバスで角田浜の灯台口へ移動する。

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中型バスの車内は多くの登山客が乗車していた。林道を通り、五箇峠登山口を経由して海岸に出て角田浜まで乗車。

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あの灯台が登山口の目印だ。

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このコースは本当に海面すれすれの海抜0メートルから登っていく。

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海が凪いでいてとても気持ちがよいが、登山開始からここまでで相当にエネルギーを使う。

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このコースは岬の突端からずっと尾根伝いにアップダウンを繰り返して山頂まで登っていく。

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バス移動の際に経由した五箇峠からのルートと合流。山頂はもうすぐだ。

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山頂に到着。とても広々している山頂広場だ。すでに多くの登山客がくつろいでいる。花見のようだ。

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山頂は広いのだが見晴らしがよくない。それで稲島コース側へ観音堂前まで少し降りて行く。

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ここは新潟市、神原平野を一望する素晴らしい眺望が広がる。(写真クリックで拡大)

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友人が用意してくれたランチを調理開始。2台のコンロを使ってお湯を沸かし、レトルトカレーとご飯を温める。

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ソーセージ、玉ねぎ、ピーマンのケチャップソース炒め!!!

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中村屋のスパイシーチキンカレー。自然の中でいただくと格別だ。もちろんこの後にはドリップ珈琲を楽しんだ。

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さて下山。ホタルの里コースを下りていくと途中で五りんコースと分岐。

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1時間ほどで平成大観音へ到着。作詞家遠藤実の寄進で建設されたとのこと。

ほどなく車を置いておいたホタルの里登山口に到着。
この後近くの岩室温泉の日帰り温泉施設「遊雁の湯 よりなれ」で汗を流す。

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引き続き、美味しいと評判のソフトクリームを食べに、やはり岩室地区の県道沿いにある「ジェラテリア・レガーロ」へ。到着してびっくり20分ほど待ちの行列だった。おじさんたちはめげずに並ぶ。

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「シングル 牧場のミルク」\300。
おいしい。

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そうそう、岩室に古くからある「角屋悦堂」に立ち寄り、おこわだんごなるものを購入してきました。

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新潟の隠れた名物しょうゆおこわであんこをくるんで、さらに笹の葉でパッケージするという、衝撃的なスイーツ。おいしゅうございました。しょうゆおこわをこよなく愛するあんこ好きとしては、今まで知らなかったのが悔やまれる。

こうして友人がプロデュースしてくれた角田山登山の一日が終わった。ありがとう。

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2018-04-27

『日本書紀』の成立と編纂者の謎

見附市学びの駅ふぁみりあでシリーズ開催されている「古代日本史講座」。
全17期の『日本書紀』成立1300年!その謎を解くシリーズ。今回はその第2回「『日本書紀』の成立と編纂者の謎」と題して、『日本書紀』の編纂に関わった人物を追っていく。
※以下「私」と記述している部分は関根先生のことを指しています。

■日本書紀を「読む」(資料紹介)

日本書紀を読もうと思うときに、そこから取り出した日本神話を読むことは多いかもしれないが、日本書紀そのものを読む人は少ないと思う。以前から週刊で刊行される歴史シリーズなどで分かりやすく取り上げられてきたが、最近は単発のムックとしても日本書紀が取り上げられることが多い。
そのうち、週刊タイプのもので分かりやすい例を資料1で紹介する。

 【資料1】資料紹介 ビジュアル日本の歴史83 『古事記と日本書紀』(デアゴスティーニ2001)

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概要として
・舎人親王が元正天皇に献上した
・全30巻から構成されている
・天武天皇の時代から編纂が開始されたらしい
・神代から持統天皇まで書かれている
というようなことが簡潔に書かれている。

『日本書紀』は、いろいろ問題はあるにせよ、この時代の史料として第一級のものであることは間違いない。『日本書紀』なくして日本の歴史は語れないほどの重要な資料であることは間違いない。

日本書紀を研究する場合、日本書紀で古代史を研究することと、日本書紀そのものを研究することは別問題であり、まずは日本書紀そのものを研究する必要があると説いたのは坂本太郎氏で、古代史研究家に少なからず影響を与えた。私も例外ではない。しかし、戦前の歴史観を引きずっている部分が多いので、資料の分析はしっかりしているが結論がやや皇国史観に偏っている。

 【資料2】資料紹介 宇治谷孟『全現代語訳 日本書紀』(講談社学術文庫1988)
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この宇治谷孟氏の「全現代語訳 日本書紀」は、初めて現代語訳で『日本書紀』を書いた本として画期的だった。読みやすく、私もこの20年間かなりお世話になってきた。
しかし、あらためて「あとがき」を読んでみると、そこに記された署名の由来や編纂の経緯に関する解説は不十分、不正確であり、歴史的事実とは考え難い。書名の『日本書紀』は誤りであり本来は『日本紀』と呼ぶべきなど古い誤った説を断定している。本文の記載についても全面的に信頼すべきかどうか疑わしく、今後は参照の頻度がかなり落ちると思う。

 【資料3】資料紹介 岩波文庫版『日本書紀』全5巻(岩波書店1994-1995)
Fig03
この岩波文庫版『日本書紀』が研究目的としては、入手しやすさ、読みやすさもよく、もちろん信頼性も高いのでお勧めである。書名についても『日本書紀』『日本紀』どちらが正しいのかは決着がついていない、ときちんと解説している。
『日本書紀』の成立についても、続日本紀で「奏じた」と記されている舎人親王の他に、編集の実務に従った紀清人、三宅藤麻呂の三名が知られるほかは明らかでない、ときちんと書いている。

■音韻分析で述作者を解明する

 【資料4】日本書紀の音韻分析が、古代史の謎を解明する。
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この資料は森博達(ひろみち)氏の本の紹介で、過去にもしばしば取り上げている。しかし、今回は新しい視点を盛り込んでいる。
森氏は音韻分析で日本書紀をα群とβ群に分けた。α群の特徴は、正確な漢文で記述されているが日常生活で日本人が使うであろう言葉や事実の表現などに誤りが見られる。また、β群はそれとは逆に、日常の言葉や事実の記載は正しいが漢文の記述が日本式であったりする。α群は唐の人間が書いたものでありβ群は日本人が書いたものと推定できる。
このことより、7世紀末から8世紀初頭にかけて、續守言と薩弘恪というふたりの唐人によって述作され、その後、山田史御形や紀朝臣清人が残りを述作、同時に三宅臣藤麻呂が潤色を加えて完成されたと結論付けている。
森氏は学生の頃より図書館の情報カードによる絞り込みを熱心に活用していたという。それは古代史ビューア【麻呂】による分析と同じ方向を進む行為であり、できればこのソフトを使ってみていただきたいと思っている。

ただし、森氏は『日本書紀』編纂は不比等が主導して進めたと主張しているが、以下の事項により私は石上麻呂が主導したと推定する。
・元明-元正と天智系の女帝を擁立したのは、時の最高権力者左大臣石上麻呂であった。
・史書編纂の基盤となった『儀鳳暦』の採用は麻呂の事績と一致する。
・日本初の辞書『新字』編纂者境部連石積は麻呂の秘められた前身とかかわりがあったと推定される。
このへんを次の史料で詳しく見てみる。

■『日本書紀』編纂の主導者は左大臣石上麻呂だった

 【資料5】『日本書紀』編纂の主導者も、左大臣 石上麻呂だったが...。
Fig05
この資料は石上麻呂の事績と日本書紀撰上を含む主な出来事を併記した年表である。
まず注目するのは676年の新羅大使。敗戦の将大友皇子に最後まで付き添った人物であるにもかかわらず、わずか4年後に大乙上という上から数えて19番目という下級官僚の身で新羅大使になり新羅に渡る。唐と戦争していた新羅はこの期間に唐に勝利するという重要な時期にあたる。

古代日本においては太陰暦が使われていたが、690年ころから儀鳳暦(ぎほうれき)が採用され始めている。また『日本書紀』では基本は儀鳳暦に則って編纂されている。

暦については『暦ものがたり』(岡田芳朗)が暦が社会にどういうかかわりを持っているかということが詳しく書かれている。その中でポイントになるところは、儀鳳暦については持統天皇が文武天皇のために採用したものと論じていることである。文武天皇が即位するときに暦も一緒に発表し、混乱していた暦を儀鳳暦に統一するとしたことにより、歴史を背負って文武天皇が即位するという風に演出した。つまり暦の採用は政治的なものだったと言える。そういう論を見ても石上麻呂は持統天皇に引っ張り上げられた人なのだと強く感じる。

■『儀鳳暦』伝来と石上麻呂

 【資料6】資料紹介 蔡毅『日本における中国暦法』
Fig06
その儀鳳暦がどうして儀鳳暦と命名されたかという謎を追ったのがこの資料で紹介している蔡毅氏の『日本における中国暦法』。
日本の学界ではもともと唐で使われていた『麟徳暦』が唐の儀鳳年間に新羅に伝わったので『儀鳳暦』と称し、日本は新羅からそれをもたらしたので『儀鳳暦』の名を襲用したとするのが定説となっている。

唐の儀鳳年間は、西暦676年から679年にあたる。先ほど話したように、石上麻呂は天武五年(676)10月に遣新羅大使として新羅に渡り、翌年(677)に帰国している。
『日本書紀』には、麻呂と共に小使として「山背直百足」の名も記されている。百足はこのあと登場することはなくなるが、物部連麻呂は左大臣石上麻呂として政権トップに上り詰めた人物。麻呂が当時唐で使われていた中国暦を日本に持ち帰り、『儀鳳暦』と名付けたという可能性がもある。

蔡毅氏はさらに、653年に第二回目の遣唐使に留学僧として唐に渡り25年間にわたって律学の勉強に励み、678年に帰国した道光について言及している。678年に道光が帰国したというのは『三国仏法伝通縁起』の記録らしい。入手出来たら確認したいが、これが事実だとすると石上麻呂との接点が見えてくる。
以前から私は、石上麻呂は第二回遣唐使(653)の留学僧だったと推定している。道光はその時の同僚で、天武六年(677)麻呂と共に帰国したのだろう。
道光が新羅にいた事実はいまのところ確認できない。蔡毅氏が指摘しているように、遣唐使以外にも日中の交流があったとも考えられる。この時、密かに麻呂が唐に渡り、道光を連れ帰った可能性もある。

そもそも麻呂が壬申の乱で敵軍の将であったにもかかわらず、わずか4年で新羅大使に抜擢されたのは、なぜか?当時交流の途絶えていた唐の情勢を探るという密命があったのではないか。
麻呂は、道光と同じく、第二回遣唐使の学僧だった。しかも伊吉の言にあるように、冤罪によって三千里の外(敦煌)に流され、博得の弁明によって許された人物(倭種韓智興)だった。その智興は、斉明元年(655)中臣鎌足の長男貞恵と共に、新羅経由で帰国した。その経歴が、大使抜擢の理由と考えられる。

■古代史ビューア【麻呂】でさぐる『日本書紀』の成立と編纂者の謎

『日本書紀』が具体的にその名前と共に記されているのは続日本紀の中で養老四年に

一品舍人親王奉勅。修日本紀。至是功成奏上。紀卅卷系圖一卷。

と記されている部分のみである。つまり舎人親王が文書30巻と系図1巻を奏上した、という事実だけが記されているにとどまる。
また、『日本書紀』という書名は出てこないが、6年前の和銅七年に

詔從六位上紀朝臣清人。正八位下三宅臣藤麻呂。令撰國史。

と記されており、国史の編纂を命じている。

しかし、これらの人物以外にも直接または間接的に日本書紀編纂に関わった人物が数多くいる。
【麻呂】のカスタム検索に日本書紀成立に関わったであろう人物を登録した。
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・681年の川嶋皇子から平群臣子首までの12名は天武天皇が記録を命じた時に登場する人物
・續守言と薩弘恪は森博達氏が論ずるα群の執筆を行ったとみられる2名
・山田史御方は同じくβ群の執筆を行ったとみられる人物
・714年の紀朝臣清人と三宅臣藤麻呂は国史の編纂を命じられたと記されている2名
・舎人親王は天皇に日本書紀を撰上した人物
・末尾の書直智徳は最近注目している人物

こういう風に個々の人物を検索して追っていくと、いくつかのキーワードで結ばれていることに気づく。それが一番上に登録してある「日本書紀編纂関連記事」である。正規表現では以下のようになる。

帝妃|新字|儀鳳暦|音博士|學問新羅|撰國史|日本紀|文章

縦棒"|"は正規表現ではor(または)の働きをするので、この正規表現を検索することにより、上記人物たちが登場し、これらのキーワードにより結び付いていることがわかる。
この中で「新字」がまず重要。「新字」とは日本初の辞書。正式な国史を書くのに使用する文字や語句の基準は大切であったと思うが、682年からこの「新字」が使われ始めている。この辞書を作った境部連石積も日本書紀の編纂に関わった人物として注目されてよい。また、さきほどの「儀鳳暦」の渡来がこの時期なのは興味深い。

このキーワード群で検索すると日本書紀成立に関わる部分のみにヒットすることに気が付く。その他の関連部分にはこれらのキーワードは登場しないのだ。これはとても興味深い。

なぜこのような構成になってしまったのかということを類推すると、当時歴史書を編纂する手順としては各人物や事績などを木簡に書き記してゆき、それを編集していったからだと思われる。結果として、キーワードで検索していくと1300年前の作業を追体験するように浮かび上がってくるということだと思う。このキーワードを見つけることができれば、歴史が浮かび上がってくることになる。

■『日本書紀』編纂ゆかりの人物を【麻呂】の検索で辿る

多くの研究者が述べているように『日本書紀』は未完と思われる。各巻によって書き方がばらばらで、誰かがきちんと取り仕切ってきちんと書いたとは思えない形になっている。

例えば「山田史御方」という人物が記載される場合「山田史」は同じだが、「御形」「御方」「三方」と3通りの書き方になってしまっている。これらは意図的に一部の語句、この場合「山田史」で検索しなおして見つけることができる。ネットで検索して確認するのも有効だ。

もう一例を出すと「中臣連大嶋」という人物。
まず検索すると681年に「帝妃」に関わっていることがわかる。「帝妃」とは後に「国史」と言われるもととなるもの。
その後ろを検索すると同じく681年に石上麻呂等と一緒に表彰されている。ここでも麻呂との接点が見つかる。
以上3回の記載しか見つからないが、ネットで「中臣連大嶋」を調べてみると「中臣朝臣」「藤原朝臣」と姓を変えているとともに、「中臣渠毎の子」という記述も見つかる。
そこで『日本書紀』を『中臣渠毎』で検索すると1件の記載が見つかる。

安達。【安達。中臣渠毎連之子。】

これは653年の第二回遣唐使に参加していたメンバーとして記載されている。
このように、国史編纂に関連する人物を探っていくと必ず石上麻呂との接点があることに驚いてしまう。それと同時に白雉四年653年の第二回遣唐使は極めて重要な遣唐使だったということを改めて知ることができる。今までこの重要性を指摘していた研究者はいなかったと思う。
さらにここに登場する『安達』という名前は検索してもこの場所にしか登場しない。井之上麻呂がらみで登場する語句や人物は「その場所にしか登場しない」というパターンが実に多く意味深い。
これらの名称を正規表現として一連のキーワード化してあらためて検索するとこの人物の事績をたどることができる。
681年に大極殿で帝妃の編纂を命じられるが、多くのメンバーの中で

大嶋。子首親執筆以録焉。

と記されており、大嶋と子首の2名は自ら筆をもって執筆したと記されている。この2名は重要な役割だったことがわかる。
次に登場するのが先ほども見た通り、石上麻呂や粟田眞人と一緒に表彰されている。653年の遣唐使では学僧として粟田眞人と一緒だったことが記載されていたが、石上麻呂もそこに一緒にいたという推論は俄然真実味を帯びてくる。
この後683年に判官になる。
685年には褒美を賜っているが、『新字』の編纂者である境部宿祢石積と並んでいるのが興味深い。
686年の登場では石上政権のNo.3である大伴安麻呂と並んでいる。大嶋という人物は石上政権で大きな役割を担っていたメンバーの一人だったと思われる。
690年にはまた石上麻呂と並んで記載されている。
しかし、691年に登場後は日本書紀にも続日本紀にも記載はない。これだけ活躍した人物なのに死亡記事がないということは、この後何か問題があったのかもしれない。このあたりは、今後さらに分析を進めたい。

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