2018-07-22

ピアノレッスン No.167 『雨にぬれても』



今年の梅雨は早く終わって、すでに猛暑の日々が続いておりますが、練習し始めた頃の気分でこの曲を弾きたくなりました。

使用楽譜:「ポピュラー・ピアノ名曲全集(2)」(松山祐士編)(ドレミ楽譜出版)

Digital Piano : KAWAI CA67
Recorder : Olympus LS-20M
Editor : PEGASYS TMPGEnc Vdeo Mastering Works 5

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2018-07-19

『日本書紀』を読む(6)持統天皇と高天原誕生の謎

見附市学びの駅ふぁみりあでシリーズ開催されている「古代日本史講座」。
17期の『日本書紀』成立1300年!その謎を解くシリーズ。今回はその第8回「『日本書紀』を読む(6)持統天皇と高天原誕生の謎『高天原とは、物部(高原)と中臣(天)を合わせた政治的造語だった。』」と題して、持統天皇と「高天原」の謎に迫ります。
※以下「私」と記述している部分は関根先生のことを指しています。

■プロローグ:古代史研究ということについて

今回のテーマである持統天皇を述べるにあたって、私の古代史研究の立場と視点を明確にしておきたい。

「歴史」とは、人間世界の時間経過であり、その記述である。一言でいえば、書かれた過去。

誰かが書いて残さなければ歴史にはならない。
そして、研究においては、書かれた過去の内容を確認、批判、検証し、自らの立場と視点から書き換えることであると言える。

私が現在メインの研究テーマとしている8世紀前後における基本文献としては『古事記』、『日本書紀』、『続日本紀』(あとは『萬葉集』)が存在する。

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『古事記』(712)
  →年時のない古代~近代史。本音で歴史的事実を造語で記述している。
『日本書記』(720)
  →年時のある古代~現代史。事実の記録と共に、政治的作り話が多い。
『続日本紀』(797)とは?
  →年時のある現代史。多くは事実の記録だが、政治的な記述操作が目立つ。
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今期のテーマは『日本書紀』を取り上げてきた。

■持統天皇

一般的な持統天皇のイメージを確認するために、NHKで放映された「歴史ヒストリア」で持統天皇が取り上げられた回の録画を編集したものを見ていただきたい。

(10分程度の録画を視聴)

番組では古代日本を作り上げた人というふうに紹介されている。(私の立場は少し異なる)
番組中で取り上げられていたように藤原京を始め、国府の所在地を中心に全国いたるところに12mや20mの道路を建設したと思われる。

『萬葉集』を見ると道を表す言葉として「美知」という字で表現されていることがわかる。「知」という言葉は、漢字海によると、一般的な「知識を得る」の他に「しらせる」という意味がある。「美」は女帝のことを表していると考えられる。つまり、女帝の威光を知らしめる、という意味で「みち」という言葉が使われ始めたのではないかと想像する。

このような権力を発揮するためには官僚制度がしっかりしていないといけないと思うが、持統天皇の頃の官僚制度ははっきりしないところがある。後の石上政権くらいになると、国司の任命表のようにかなりしっかりとした姿が見えるようになるのだが、持統天皇の時期についてはそこまでしっかりしたものが出来ていなかったと考えられる。

それと番組内で持統天皇の頃は遣唐使の行き来がなかったので、唐の情報が入って来なかったと解説されている。そのために当時の長安のような都の作り方ではなく、古い中国の書に載っているように、都の真ん中に宮殿を置く形になったという。
しかし、例えば『日本書紀』の執筆に大きくかかわっていると考えられる續守言と薩弘恪など、捕虜などの形で多くの唐人が日本に来ている事実がある。それらの人々から情報は入るはずだ。
持統天皇の頃、中国は則天武后による睡簾政治から武則天による周の建国の時期だったが、武則天の行っていた制度はかなり日本に入ってきていると思える。官僚制度そのものが武則天が活用した制度であり、遣唐使とは別の形として日本に入ってきたと考えると理解しやすい。

武則天と持統天皇の共通項をまとめてみた。
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武則天と持統の共通項

在位期間
  →武則天(690-705)
  →持統天皇(690-697)
  ※文武天皇に譲位後も崩御(702)まで為政に関わった。

火葬
  →武則天(624-705)
  →持統天皇(645-702)
  ※文武王(626-681)新羅で初めて火葬された王。
  ※道照(629-700)遺命により日本で初めて火葬に付された。
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火葬という風習がちゃんと日本に伝わってきていることは興味深い。

そんな持統天皇だが、和風諡号(送り名)は「高天原廣野姫」(たかあまはらひろのひめ)という。本日のメインのテーマとしてこの「高天原」について論考してみたい。

■「高天原」の真実

【資料1】資料紹介 武光誠『古事記・日本書紀を知る事典』(東京堂出版1999)
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この本の著者である武光誠さんは最近多くの本を出されていて、読みやすい内容が多い。「高天原」についての部分を資料に引用したが、私の主張とは異なるが、このような見方があるというのは事実だと思う。

ポイントは2つあり、まず、「高天原」という言葉は古事記の時代に改めて作られた言葉であるという視点が述べられており、私も同意する。
2つめが、空を表す「天原」に「すぐれて尊いありさまを表す「高」を付けたのが「高天原」であり、そこに古事記や日本書紀に登場する神々が住んでいたということである。少なくとも『古事記』も『日本書紀』もそういうとらえかたができるような書き方になっていることは事実である。しかし、そのような表面的な書き方の裏に何があるのかという視点も必要であると思う。

それでは具体的に『古事記』『日本書紀』などで「天原」「高天原」がどのように使われているのかを古代史ビューア【麻呂】で見てゆきたい。

まずは『萬葉集』を「天原」で検索すると12件の該当箇所がある。見ていくといずれも空のことを表しているようだ。

続いて『続日本紀』。こちらは10件が該当する。検索して確認していくといずれも「高天原」の一部として使われている部分である。漢文で書いた国史の中では「天原」という使われ方はされていないということになると、「天原」という言葉は日本語の感覚で使われていたのかもしれない。

それでは『日本書紀』を見てみよう。全部で11件登場するが、神代記の10件の後は1件だけ、途中登場しないが最後の持統天皇の部分で和風諡号として登場する、
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これは不自然と感じる。
また、『日本書紀』では「高天原」でなく「天原」単独で使われている箇所が4か所見られる。これらの使われ方を見ると、本来は「高天原」と表記されてもいいところを「天原」として表記していると思われる。これは故意か過失かわからないが、「天原」という使い方があったものをある時期に「高天原」に変えたからではないかと思う。その「ある時期」とは持統天皇に「高天原廣野姫」という名前を付けた時であると私は考える。

【資料2】根本的な誤読から生まれた様々な高天原諸説
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この資料で紹介しているのは安本美典氏が高天原をテーマにまとめた貴重な研究書。安本氏の手法は様々な文献を集めて整理するというものであり、この本も「高天原」に関する様々な理論説を紹介し、分析し論及している。
先ほども述べたように「天原」は空を表すととらえる考えがあり、それを天上説としている。また、地上のどこかに存在したと考える地上説があり、国内から海外にまで論考は広がっている。

しかし、私の主張はまったくこれらに属さない。
石上麻呂と藤原不比等という、『古事記』や『日本書紀』が作られた時代。言葉というのは必ず歴史的な背景を持っているというのが私の主張。なぜかというと歴史は書かれたものであり、書いた時期の書いた人の立場に歴史的背景、社会的背景が反映するものだと思う。
「高天原」という言葉もそうである。石上麻呂を表す「物部」、藤原不比等を表す「中臣」を併せた言葉と考えられる。したがって、該当する地域を探しても意味がない。
物語としては天上に神様がいたという風な書き方をしているが、その裏に隠されているのはその時期の為政者たちの思惑を言葉に反映したものである。抽象的な物語の裏に、時代時代の具体的なお話が隠れている、という風に私はとらえている。

安本氏は、これだけの論考を整理しているのだから、『古事記』『日本書紀』の記述についても論及すべきだと考える。

「高天原」については、私が『古事記』をやりはじめて一番初めに引っかかった問題。
ここにある岩波文庫版の『古事記』は訓読、訳文、原文が載っており、非常に研究に取り組みやすい構成になっている。しかし、土台が本居宣長の『訂正古訓古事記』の訳になっている。
原文を参照してみると、冒頭の一文の中に「天」が3回使われている。そこに注があり、「高の下の天は阿麻と云う」と書かれている。しかし、本居宣長の読みは「たかまのはら」となっている。これはよく理解できないので、その時代のことをよく知る必要があると思い、古代史の研究に入ってきた。しかし、この読み方でさえはっきりしないというのが現状である。
『古事記』や『日本書紀』には注がたくさん書かれている。「背中」とか「割注」と呼ばれるが、それらをどう解釈するのかが研究課題にもなる。

そんな時代背景を調べていくうちに第二次遣唐使(653年)がキーになるとわかってきた。

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第二次遣唐使
  白雉4年(653)に渡唐し、朝鮮半島を経て帰国(665)した人々。
  →定恵(643-667)中臣鎌足の長子で、不比等の兄。
  →道照(629-700)玄奘三蔵に師事。日本で初めて火葬された。
  →粟田真人(?-719)大宝2年(702)5月に参議となり、渡周(703)した。
  →韓智興(生死不詳)別倭種のため冤罪で配流後、許されて定恵と共に帰国。
  ※伊吉連博徳(生死不詳)智興の無罪を弁明、大宝律令の編纂にも参与。
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定恵は帰国した翌年に亡くなるのだが、この人物が石上麻呂と藤原不比等を結び付けたと思われるからだ。つまり、石上麻呂の前身である人物が定恵とともに唐に渡っているのだ。道照は初めて火葬された人。粟田真人は「日本」という国名を対外的に初めて使った人。韓智興は石上麻呂その人と思われる。

持統天皇の事績を見るときに、石上麻呂の事績を振り返ると、その時代のことがよく見えてくるので、古代史ビューア【麻呂】を使って振り返ってみたい。

まずは『日本書紀』記載部分。
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壬申の乱(672)で、大友皇子の死を看取る。
大乙上で遣新羅大使(676)になる。
羅唐戦争(670-676)終結後に帰国する。
天武天皇十年(681)粟田眞人等と共に小錦下を叙位。
朱鳥元年(686)天武天皇崩御時、法官について誄する。
持統三年(689)筑紫に派遣され、新城を監する。
持統三年(690)持統天皇即位時に大楯を樹する。
持統十年(696) 政権のナンバー4になる。
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次に『続日本紀』記載部分。
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文武四年(700)10月15日石上朝臣麻呂が総領になる。
大宝元年(701)3月21日石上朝臣麻呂が大納言になる。
大宝元年(701)7月21日左大臣多治比眞人嶋が薨去。
大宝二年(702)8月16日石上朝臣麻呂が大宰師になる。
大宝三年(703)閏四月右大臣阿倍朝臣御主人が薨去。
慶雲元年(704)1月7日大納言石上朝臣麻呂が右大臣になる。
慶雲元年(704)1月11日二千一百七十戸を益封される。
和銅元年(708)1月朔11日正二位となる。
和銅元年(708)3月13日石上麻呂が左大臣になる。
和銅元年(708)7月15日石上麻呂政権の成立を祝う。
和銅三年(710)3月10日平城遷都開始され旧都の留守となる。
和銅三年(710)7月朔7日左大臣舍人の牟佐村主相摸が瓜を献上 。
養老元年(717)3月3日左大臣石上麻呂薨去。
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■「高原」と「天」についての論考

さきほど物部を表すのが「高原」であるという話をしたが、「高原」を検索すると『古事記』『日本書紀』『萬葉集』には1回も現れない。ところが『続日本紀』に1回だけ登場する。790年のところである。
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韓國連源という人が「自分は物部大連の子孫である。物部は自分の住んでいるところの名前をつけたりして180氏ある。源の先祖である塩兒は自分の住んだ国の名前に由来して物部連を韓國連にした。しかし、われわれは大連の子孫で本来は日本の古い民の子孫であるが、今韓國を名乗るといろいろと都合が悪いので名前を自分の住む場所の名前に変えたい。そのようなことで「韓國」を「高原」に変えたい。ということで許されたという記述である。
ここで重要なのは「高原」というのは住んでいる場所であるとしていることである。「高原」というのは先ほど見たように、8世紀の書物の中でこの1か所しか登場しない。韓國連は下野の人である。下野にあるのが高原山であり、現在もそう呼ばれている。つまりこの「高原」というのは栃木県那須である。

さらに「自分は物部大連の子孫である。」というところに注目する。「大連」を検索すると『続日本紀』に3回登場しており、うち2回は、今ほどの790年の部分。残りの1回は717年に石上麻呂が亡くなった部分である。そこには石上麻呂は「大連物部目」という人の子孫であると書かれている。

これで「高天原」のうち「高原」は明らかに物部氏のことを指していることがわかる。

そうすると「天」とはなんだろうということになる。そんな中ある1冊の文献に出会った。平安時代に書かれた歌論『俊頼髄脳』である。
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この中で、すべての言葉には異名(違う言い方)があるとして様々な言葉が並んでいるのだが、その先頭に「天 なかとみ」と記されている。

これで、

高原 : 物部
天  : 中臣

という推定が成り立つ。つまり、「高天原」というのは「物部」と「中臣」を組み合わせて作った言葉であると言える。

そして、その「高天原」を持統天皇の和風諡号「高天原廣野姫」として使ったのである。そういう政治的用語であるというのが私の説である。

【資料3】麻呂・不比等の冠位変遷と日本語「高天原」の成立
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ここまで話してきたことをこの資料にまとめてある。

「高天原」は物部を表す「高原」と中臣を表す「天」を組み合わせた言葉で、麻呂と不比等の政治的立場を表している。空を意味する「天原」にすぐれたという修飾語の「高」をつけたという使われ方はしているが、言葉そのものの成り立ちは極めて政治的な背景から作られたものである。

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2018-07-07

MOS Word 2016 Specialist 合格!

今年の5月12日にExcelのMOSに合格しました。

MOS Excel 2016 Specialist 合格!

そして今日、今年のMOSシリーズ第2弾、Word2016を受験し、またまた満点合格を果たしました。
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Wordは普段はほとんど使わないので、テキストに書いてあることはほとんどが初めて目にする機能ばかりでしたけど、Excel受験の時と同様に、模擬試験をひたすら実施して、不安なところが無いようにして今日を迎え、無事合格となりました。
今年の目標はExcel、Word、Accessの合格と決めていたのでこの秋はAccessを受験すべく勉強を開始。あわよくば今年中にPowerPointもとってマスター資格まで持っていけたらいいなあ。

(追記)マスターの条件をよく読んでみたらWordとExcelはExpertの合格が必要でした。今年中は無理でした。

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2018-07-05

『日本書紀』を読む(5)遣唐使・遣周使と日本建国

見附市学びの駅ふぁみりあでシリーズ開催されている「古代日本史講座」。
17期の『日本書紀』成立1300年!その謎を解くシリーズ。今回はその第7回「『日本書紀』を読む(5)遣唐使・遣周使と日本建国『第二回遣唐使(653)に参加した若者や関係者が、律令国家「日本」を建国した。』」と題して、第二回遣唐使のメンバーの重要性に迫る。
※以下「私」と記述している部分は関根先生のことを指しています。

■プロローグ:遣唐使概要

今日のテーマである第二回遣唐使の話に入る前に、一般的な遣唐使の知識がわかりやすい講義形式の動画があるのでそれを見てもらいたい。

この動画では次のような内容を話している。
618年に唐が中国を統一し、周辺諸国との交流が盛んになってきた。日本も630年に最初の遣唐使を派遣し、894年に菅原道真の建議により廃止するまで十数回の派遣が行われた。たくさんの大使、留学生、学問僧などが唐に渡り、日本の政治・文化に大きな役割を果たした。

■古代日本の中国との外交を概観する

【資料1】資料紹介 河合敦『早わかり日本史』(日本実業出版社1997)
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この資料で対中国外交を概観する。遣唐使の前にも中国と日本はかなり昔から交流があった。今回の講座シリーズでも卑弥呼の時代の中国との関係をお話した。それがとだえてしばらくしてからまた5世紀くらいに交流が始まったが朝貢外交で会った。その後、隋という時代になって聖徳太子が交流を進めた。基本的に平等の外交で隋に対したというような話が残っている。その後、8世紀には20年に1度の割合で遣唐使を派遣していたが、9世紀に菅原道真の建議により廃止された。
この長い歴史を持つ遣隋使~遣唐使の中でも、8世紀に鑑真が来日したり、藤原仲麻呂が唐に渡って出世して帰してもらえなかった一方、吉備真備が帰国して活躍し右大臣にまでなるという活躍をしたことなどが有名である。

しかし、ここ数年、平城京遷都の前後の歴史をテーマに調べ始めてみると、第二回遣唐使の重要性の重要性が浮き上がってきたが、一般的にはほとんど取り上げられることがない。今日はこの部分にスポットを当ててゆきたい。

■律令制度とは

遣唐使により中国から日本にもたらされたもので政治に大きくかかわるものと言えば律令制度であろう。少し整理しておきたい。

律令制度は調べれば調べるほど面白い。それも時代によって変わっていく。

【資料2】資料紹介 河合敦『早わかり日本史』(日本実業出版社1997)
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この資料の図に整理してあるが、668年の近江令から始まり、10世紀頃(平安時代)まで続く。
この律令制度で作られたしくみは明治以降、現代の官僚システムまでかなりの部分で続いている。律令制度とは官僚システムなのでいわば政府の形の取り決めである。この本には「ややゆるやか(!?)な律令」としているが、私の感想としては中国よりもかえって整っているのではないかと思う。中国はそもそも儒教の国なので、国の仕組みを法律で取り仕切るというのは中国全史から見るとかなり例外的である。

この律令制度を最大に活用したのは「則天武后」、後の周という国を作った「武則天」という中国唯一の女帝が、自分の配下を作るために使ったものと考えてよい。
日本の「天皇」という呼称もこの武則天の律令制度からとってきたと考えられる。
則天武后と同時期に日本では持統天皇が誕生し、その体制の中で大宝律令というしっかりしたものが作り上げられた。

この資料の表で大宝律令の中心人物に刑部親王と藤原不比等、養老律令に藤原不比等の名前を挙げているが、忘れてはならないのが石上麻呂である。不比等と一緒に、あるいは不比等を強く牽引して律令制度を作り上げたのは石上麻呂だからである。

平安時代になると「格式」というものが制定される。これは律令を修正して施行規則を定めたもの。

律令制度については、誰が日本にもたらし、どのように運営していったのかというのをもっときちんととらえなければいけないのではないかと、私は思っている。特に初期段階についてはほとんど研究されていないのではないかと思う。
例えば石ノ森章太郎の「日本の歴史」は監修もしっかりしているが、第二回遣唐使については何も触れられていない。

それが、現在の一般的な遣唐使のとらえ方であることをまず認識しておきたい。

■「日本」(ヤマト)建国と遣唐使に対する私の思い

今日の講義表題は「遣唐使・遣周使と日本建国」だが、「日本」という古代語(実は「ヤマト」)がいつできたのか、「ヤマト」という名前の国がいつできたのか、ということはよくわかっていない。取り上げられる本によっていろいろな書き方がされる。
この「日本」という国がどういうふうに誰によって作られたのかということをしっかりとみていきたい、というのが私の思いである。なぜかというと、まさに『古事記』が成立した時代のことだからである。『古事記』は712年に成立したが、その『古事記』を作った人たちの話である。
自分自身が『古事記』の研究から始まったのだが、よくわからないことが多かった。わからないのならそれができた時代背景を探っていったらいいのではないかという思いで古代史研究に取り組んできた。
それには712年以前の10年、20年、さらにさかのぼって30~40年、50~60年あたりのことが研究の対象となる。それはまさに第二回、第三回遣唐使の時代が大きなポイントになってくる。

結論から言うと、遣唐使がもたらしたものから律令制度をはじめ様々なものができ、「日本」という国が生まれていったと言える。

今回はそこのところを詳しく話そうと思っていたが、現状でまだまとめきれていないので、回を改めてお話したいと思う。

■真の「日本建国」とは

ここに紹介する資料は榎本秋さんという方がまとめた図解を中心とした本で、表紙イラストも本格的なものでイメージが膨らみ見ていて楽しい。

【資料3】資料紹介 榎本秋『徹底図解 飛鳥・奈良』(新星出版社2008)
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「大宝律令-『倭』から 『日本』へ」というタイトルが付いた章を紹介しているが、このタイトルを見ると「倭」から「日本」になったのは大宝律令のできた701年頃なのではないのか、ということがにじみ出ている。
「大宝」は年号である。年号については645年頃に「大化」という年号が作られて以来、途中中断しながら使われてきた。それが「大宝」になってから現代まで1300年の間途切れることなく年号は使われてきている。そういうことからも「大宝律令」は注目すべきものである。
また確かに大宝律令のもと、国号も「日本」として改められた。

この資料の図の下部には日本の思惑と唐の認識の間にはズレがあったことが説明されている。ズレは国内にもあった。「天皇」という君主号が最初に使われたのは天武天皇であることは間違いないと思う。これは発掘された木簡からも証明されている。ただし、かと言って「日本」という名前がしっかり国号として認識されていたかというと疑問を感じる。たぶんそのようにはなっていなかったのではないかと思う。

それでは歴史的に見て日本が本当に「日本」と呼ばれたのがいつ頃なのか。まず律令制度ができる、そして「和同開珎」という貨幣ができる。そして何よりも708年に石上政権ができてきちんとした官僚制度が整備される。かつ政治を行うための都が整備される。そういう何拍子もそろって作られたものを新しい天皇の即位とともに発表した。それが霊亀元年(715年)にあたる。さらにそれを記念する形で『日本書紀』という歴史書が完成した。これらをもって「日本」の建国がなされたと私は考えている。

中国の律令国家と日本の律令国家では決定的な違いがある。
中国の律令制度は皇帝、もっと具体的に言えば「武則天」のための制度であった。それまでは一族が牛耳っていたが、武則天は高官数百人を粛清してしまった。そのために国をまとめていくための才能ある人材が必要になり、「科挙」制度を利用して優秀な人材を集めた。そのために律令制度を整備したという経緯がある。
ところが日本は律令制度を整備するにあたり、天皇はお飾りにし、官僚そのものが国を支配するというしくみにした。その結果が藤原氏の台頭になっていった。

■石上政権が作り上げた律令国家

先ほども述べたように、この頃誕生した律令制度は現在まで綿々と受け継がれている。ただし、制度である以上、トップが腐れば制度そのものも腐敗していくのはいたしかたない、それは昔も現代も同じだ。
しかし、石上政権時の国家はかなりきちんと機能していたと思われる。

【資料4】律令国家「日本」建国の礎を築いた中央官僚たち。
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和銅元年(708年)に石上麻呂が左大臣につき、石上政権が完成した時の官僚たちの一覧を資料にまとめた。こうしてみるとすごくしっかりとした組織ができていることがわかる。

官僚一覧の「太宰帥」に位置している「粟田朝臣眞人」は、今日のテーマ「日本建国」を語るときに必ず登場する人物。700年初頭、周に渡り、武則天に会い「日本」について語ったと記されているからである。しかし、どういう形で周に渡り武則天と面談したのかという経緯は何も残されていない。小役人に「どかから来たか」と問われ「日本から来た」と答えたという会話が書かれているが、それを「日本が送り出した」と解釈する人が多い。それをもって「日本の国は700年初頭にできた」とする人はかなり多い。
しかし、日本の国史として行ったという表現があえてされていない。眞人が小役人に対して「日本から来た」と名乗ったという記述しかされていない。その時に「ここはどこか」というような質問をしたりしていて、妙な会話となっている。

持統天皇の頃まではここまでしっかりした陣容はなく、皇族にまつわるできごとがいろいろ書いてあるに過ぎない。ここまでしっかりできていればかなりの国づくりが始まったとみてよいのではないか。
まさに708年にはこうした形で中央官僚が支配する国ができたことが書紀の中には書かれている。

■古代史ビューア【麻呂】を使って日本建国の軌跡をたどる

いつもの講義では私が【麻呂】を操作して文献検索を見てもらっているが、今日は受講生の方から数名の方に出ていただき、私がサポートするのでご自分で検索作業を行っていただくこととする。

まずは『日本書紀』を執筆するには漢字を使う必要があり、そのための辞書が編纂された。それが「新字」である。

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その「新字」というキーワードで検索をスタートすると『日本書紀』には1か所の該当があり、「境部連石積」等が命じられて44巻からなる辞書を作ったことが記されている。そこから人物名をたどっていくと第二回遣唐使にたどり着く。

次のキーワードは「日本」。
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『日本書紀』には「日本」という言葉は232回も登場するが、『古事記』には1回も登場しないことがわかる。では『続日本紀』はどうか『日本後記』と辿っていくと意外な状況が見えてくる。

最後は「粟田眞人」。
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先ほども何回か取り上げたが、この人物も石上麻呂と共に重要なところに登場することがわかる。

(実際に操作された受講生の方々はそれぞれに納得されていたようだ)

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2018-07-01

カーナビアプリを使い比べる

今年に入ってから東京の往復は車を使って(高速ではなく)一般道で行き来するようになった。
見附市(新潟県)~板橋区(東京都)というルートなので基本的には国道17号をまっすぐ走ればよい。
最初はそのようにしていた。途中の数回の休憩も含めておよそ7時間というところ。高速を使った場合のおよそ2倍の時間を要する。
この3時間だけ早く着くことの引き換えに5千円ほどの高速料金をはらうかどうかだが、私の場合は時間は売るほどあるので、5千円で時間を売る方を選んだ。

この辺の経緯は
・見附~東京 国道17号線ドライブ
http://guiter.cocolog-nifty.com/bare/2018/02/17-1821.html
に書いた通り。

そこでいかに効率の良いルートを走るかということが課題になり、カーナビの活用となるわけだ。
私の車は亡き母が10年前に購入した軽自動車(ダイハツミラ)。カーナビはついていない。したがってスマートホンのカーナビアプリの活用となった。

現在カーナビとして使用できるアプリは無料、有料含めて数種類存在する。その中で現在使っているものは以下の4種類となった。

・Googleマップ(無料)
・Yahoo!カーナビ(無料)
・TCスマホナビ(無料)
・カーナビタイム(無料)

実はMapFanという老舗のカーナビアプリ(有料)にも大きな期待を持っていてのだけど、現在位置認識が非常に不安定だったり、操作感が異様に重かったりで早々に脱落した。

■使用環境(取付スタンド)

スマートホンはHUAWEI P10 Lite。画面サイズは5.2インチとそこそこ大きい。スタンドは以前はダッシュボードに吸盤で固定するタイプを使っていたのだが、ダッシュボードの素材との相性が悪くすぐに脱落するようになった。それで現在のものはエアコン吹き出し口のルーバーに固定するタイプだ。
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かなりの距離を走っているが一度も脱落したことがない。エアコン吹き出し口ということで温度が心配だが、冬の温風は足元から吹き出すので、この位置は熱の心配はない。また夏の冷房時はスマホの裏に直接冷風があたる形になり、スマホの冷却の観点からも好ましいのではないか。すくなくとも今まで一度も不安に感じたことはない。
気を付けないといけないのは、駐車中に装着しっぱなしにした場合の直射日光だ。防犯上の観点からも車から長時間離れるときはスマホは取り外すべきだ。

■使用環境(電源)

次は電源であるが、最近の車はUSB端子がついている場合がほとんどだと思うのでそこからUSBコードで給電しながら走行するとよい。
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私の10年前のミラはそんなものはないので、シガーライターソケットを使うことになる。以前はUSB給電専用のシガーソケット用アダプタを使っていたのだが、最近シガーソケットに直接挿入するFMトランスミッターを使い始めた。この機器には給電用のUSB端子が3個ついているので、そこからUSBケーブルでスマホに給電しながら走行する。

■使用環境(データ通信)

カーナビアプリの場合は車載用カーナビと違い、地図を含めた情報はすべてオンラインで受信しながら走行する。地図をいったんスマホに保存しておき、通信ができない環境でも使えることを売りにしているアプリもあるが、私は今まで困ったことは一度もない。山道でも長いトンネルでもまったく問題なく道路の表示や案内が行われる。
車載カーナビに対するスマホのカーナビアプリのアドバンテージの一つはリアルタイムの渋滞情報を活用できるということだと思うが、その点でもオンラインは必須だ。

それでどの程度パケットを消費するのかだが、私の場合は以下の通り。
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これは私が利用しているBIGLOBEモバイルの6月のデータ使用状況。月3GBのデータ量を契約しており、余った分は翌月まで繰り越せるタイプだ。6月は新潟~東京往復が2回と東京~静岡往復が1回という使用状況。いずれもカーナビアプリと同時にradikoでラジオもずっと視聴している。普段は自宅にいることが多く、外出しても外ではメール程度しかスマホを利用しないので、この使用状況はほぼ車での使用が占めていると考えてよい。
約1.5GBほど消費していることがわかる。

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このグラフはその日別の内訳。1日と2日は東京~静岡、4日は東京~新潟。10日前後は新潟県内。17日と18日は新潟~東京だ。
およそ6時間程度のドライブではカーナビ+radikoで200~300MBのパケットを消費していることがわかる。以前radikoを聞いていなかった時は120MBくらいの消費量だった。
この程度の通信料は私の場合はまったく問題がない量である。

それでは各アプリの使い勝手を見ていこう。

■Googleマップ

たぶん、世界中のスマートホンのほとんどにインストールされていると想像されるGoogleマップ。こいつには標準でカーナビ機能が付いている。
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画面はとてもシンプルだ。だけど、行き先をセットしてルートを検索し、そこまで画面と音声で案内してくれるという基本機能は万全。しかも圧倒的な数のユーザから提供される渋滞情報はとてもありがたい。

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この日は見附市内から国道17号をひたすら都内まで走るというコースで使ってみた。
このアプリの一番の特徴はルート選定がマニアックということ。これは長所でもあり一歩間違うと足かせにもなる。とにかく他のカーナビアプリとは一味も二味も違うルートを提案してくれるのだ。

例えば、見附市内から8号線バイパスに出るルート、王道は県道をまっすぐ走りバイパスに合流するルートなのだが、私は信号や踏切を避けることができる農道へ迂回するルートをよく使う。Googleマップは一発でそちらのルートを案内してくれた。Googleには私の位置情報がすべて送信されていると思うので、もしかしたらそれを参考にしてルートを決定しているのか?

あと、ルート選択時もそうだが、走行時にも随時代替ルートが地図上に薄く表示され、何分遅いとか表示される。タップするとそちらのルートに切り替わる。とてもいい。こういうところが地図マニアの心をくすぐる。
今回、三国峠を越えて群馬県に入り1時間ほど走ったあたりで渋川市内の渋滞の時間となった。たぶんその渋滞を回避するためだと思うが、手前で赤城経由のルートを案内された。何回か17号を走っているがこれは初めてだった。昨年新しく開通した渋川から前橋に至る上武道路はまだ片側一車線区間があるので渋滞に巻き込まれやすいのだが、今回のルートは見事にそれを避けて2車線区間へバイパスできた。
気になる点もある。音声案内で「この先、分岐を右方向」などとしょっちゅう案内するがこれは迷惑だ案内される個所のほとんどは直線かややカーブの道なりであり、「右ってどこだ?」とものすごく不安になる。幹線道路で側道分岐があるところも同じ問題がある。17号は群馬埼玉県内はすべてバイパス化されており、側道による分岐もたくさんある。それを直進するところも「右方向へ分岐」と案内する。
以上の多くは「分岐を道なり」が正解。または何も案内しない方がよい。道なりかどうかという判断が考慮されればいいのになあと思う。
あと地図の拡大縮小のボタンがなくピンチインアウトのみなのも不親切。

総合的には、常用はしなくていいけど、ルートを楽しみたいときにはかかせない、という感想。このルート選択の魔力は恐ろしいほどだ。


■Yahoo!カーナビ

 こちらもカーナビアプリではGoogleマップと双璧をなすと思われるYahoo!カーナビ。
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一言でいうとすごく安定している。突飛なルートを案内することもないし、いらない音声案内も少ない。きわめて優等生なアプリという印象だ。

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渋滞情報もルート上に表示される。画面下に表示される到着予想時刻は結構実情に即しており正確だ。この画面は地図を3D表示にしている。
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画面例はとれなかったが、幹線道路などの交差点では必ずレーン表示がされる。
この画面例は17号線の沼田近辺を新潟に向かって走行中だが、ひたすら17号を道なりに進めばよいので画面上部の交差点案内は141km先の見附市への県道を右折するところを早々と出している。
地図上にはコンビニやスタンドのアイコンも表示されるのは便利だ。

Yahooカーナビ!の全体的な感想としては、基本を押さえた超優等生といったところ。実際これが無料で使えるなんて夢のような話だと思う。Yahooは乗換案内アプリも超優秀だし、乗り物系に力を入れているみたい。

■TCスマホナビ

無料のカーナビアプリの3番手はTCスマホナビ。これはトヨタが提供しているカーナビアプリ。
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結論から言ってしまうと、私的にはこいつがメインで使いたいカーナビアプリだ。

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この写真は環八の地下道を走行中だけど、ちゃんと自車位置もナビも問題なく継続している。この画面では上部に青い交差点案内看板イメージが出ている。これは実際に道路に設置してある案内板とまったく同じものが表示される。必須というほどではないけど、表示されれば安心感はある。

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画面右下にボタンがL字型に配置されているけど、ふだんは消えていて、左下の「OFF」と書かれた青いボタンだけが表示されており(表示は「ON」)、ボタンを押すとL字型配列ボタン群が表示される。私としては常時表示されていた方がよいと思うのだけど、そういう設定項目はないようだ。
コンビニやスタンド、駐車場のアイコン表示もぬかりない。
右下に「リルート」というボタンがあるが、ルート上に渋滞があるような場合にこれを押すと一発でリルートしてくれる。なお、渋滞情報はトヨタのT-Probe渋滞情報が地図上に表示される。

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遠距離を走行しているときは地図は広域表示にした方が見通しがいのだけど、交差点で右左折する場合は詳細の地図が見たい。このアプリはそれをサポートしている。この画面のように上部に交差点の拡大図がポップアップされ、そこに至るまでの距離が表示されるので安心だ。

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ルート選定は普通かな。Googleマップがマニアック、Yahooカーナビ!が王道としたら、TCスマホナビは王道寄りだ。時々マニアックっぽいわき道を案内することもあるのが面白い。
このアプリが楽しいのは地図表示のきれいさだ。この画面は三国トンネルを新潟県側に入った苗場スキー場手前あたりだけど、他のアプリがわりとそっけない表示なのに比べて、茶色や緑などで周囲の状況の雰囲気がわかりやすい表示になっていてとても楽しい。

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地図がきれいなのは市街地でもそうだ。これは環八を走行中の画面だけど、屋形イメージっぽい表示まであり、周囲の都市部の雰囲気が感じられる。ナビ機能には直接は関係ないけど、結構ポイントが高い。

このソフトで惜しいのは予想所要時間が安全サイドに寄りすぎということだろうか。他のアプリで見附~板橋間の一般道ルートの所要時間を6~7時間程度と見積もるのに対して、このアプリは同様のルートを9時間以上の時間で予想する。実際にナビしていくと目的地に近づくにつれ到着予想時刻が早くなっていくが、いくらなんでもこれは実態と合わなさすぎ。
また、ルート上の道路分岐の案内もGoogleマップほどではないが、道なりのところを「右方向」だの「左方向」だのといらない案内を行う場合がある。この「道なり」問題については後でまとめで触れたい。

■カーナビタイム

今回取り上げたカーナビアプリの中で唯一有料のアプリ。ナビタイムは携帯電話の時代から地図・交通系サービスで頑張っている会社。
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料金は月払いの場合\600、年払いの場合\5,700。最初にサービスを利用する1か月だけは無料となるので、その間に継続するかどうか判断できるしくみになっている。私は料金を払う価値があると思ったので年払いにした。GooglePlayの定期購読で支払うのだが、自動継続したくなければ、支払い完了後に解約すればよい。1年間は使えるので、1年後に再度継続するか判断する。

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このカーナビタイムだけど、非常によくできている。他の無料アプリでできることはほぼすべて網羅していると思う。
TCスマホナビのところで交差点の詳細図がポップアップする機能のことを取り上げたが、カーナビタイムにも同じ機能がある。こちらは赤いバーが交差点までの接近状況を示してくれるので、よりわかりやすい。
設定も非常に細やかに行えるので、自分好みの動きになるように作り上げられるところもすごい。私の場合だと、道は細くともよいのでなるべく近道をルート選定するように設定した。

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こいつはVICSの渋滞情報を使用しているようだ。ルート上に渋滞が発生して、渋滞を避けて早く到着できるルートが見つかった場合は、ルートを変更するか聞いてくる。設定によるが、そのままにしておくと新ルートに変更してくれる。
このアプリの特徴として音声操作が可能な点があげられる。「カーナビタイム」と呼びかけると音声命令の聞き取り状態となり、運転中に行いたい「拡大」とか「縮小」など多くの操作が声だけでできる。これは素晴らしいのだけど、実際は実用にはならなかった。アプリを起動した当初は音声を受け付けてくれるのだが、数回行う、またはある程度の時間がたつと音声を認識しなくなってしまう。

あと、これもTCスマホナビにあった機能だが、道路の案内標識のイメージが表示される。しかし、ちょっと表示が小さいので認識しずらい。TCスマホナビくらいの大きさで表示できるとよいのだが。

■カーナビアプリに望むこと

以上、4つのアプリについての感想を書いてきたが、全体的にカーナビアプリに臨むことを最後にまとめておきたい。

・一般道のレーン案内
初めての道を走っていて一番気を遣うのが右左折または分岐の場合の走行レーンだ。
例えば国道17号を東京から新潟方面へ走っていると、まず新大宮バイパスで頭上を走る首都高が新都心方面へカーブするあたりで一般道は(円阿弥交差点だと思うけど)いままでずっと直進3レーンで走ってきたのが、一番右側のレーンは右折分岐専用になり、直進は左側の2レーンだけとなる。
さらに先に走り、国道16号と合流した後上尾市内で16号から分かれて17号に合流する交差点(というかジャンクション)があるのだが、ここは左側の2レーンは16号で、一番右側のレーンだけが17号に合流できる。
さらに例をあげると 、静岡県内の国道1号を袋井から掛川バイパスに入るとき、ここも一番右側のレーンだけがバイパスに入り左側の2レーンは市内に入っていく。
このように明らかな交差点でなくレーン分岐で異なる道路に合流する場合、何にも案内がないのだ。これはいずれのアプリもそうだった。どうでもよい郊外道路での「この先右方向に分岐します」などという案内はいらないから、このような幹線道路の分岐・合流のレーン案内はきちんと案内してもらいたい。首都高などではきちんとレーン案内するので、一般道でも同じレベルの案内ができるとよいのだが。

・車線の連続性、および車線減少
これも都心方面を走行中に感じる不安だが、右折専用レーン、左折専用レーンなどがある場合、案内してくれるのだが、直進が何キロも続く場合、どの車線を走っていれば車線変更に気を遣わずに走れるのかを案内してくれるととても安心だ。カーナビの道路データには交差点のレーン情報は入っているが、交差点の間の車線の情報までは含まれていないようだ。これがあるとずいぶん案内の質が向上すると思う。
同様にルート上で車線が減少する場合は事前に案内してくれるとうれしい。これは交差点ごとに車線数を認識できると思うので、どの車線という条件を外しさえすれば実現可能だと思われる。

・「道なり」の認識
これは主にGoogleマップでの分岐案内に辟易して感じたことだけど、他のアプリでも多かれ少なかれ言えること。それは「道なり」という概念をデータ上にもってもらいたいということ。上で述べた車線情報と本質的には同じことかもしれない。
運転していて道なりに進む限りは余計な案内は不要だ。案内するときも「道なりに右方向」とか「道なりに直進」とか言ってくれればとてもわかりやすい。

・ルート作成の自由度
もしかしたら、これは一般のカーナビ利用者はあまり必要とはしないのかもしれないが、カーナビは目的地を指定することにより、適切なルートを自動選択する、というのが基本的な流れだ。その場合ルートは有料道路使用の有無や細い道を通るかどうかなど、いくつかもオプションを指定することができる。中には景観が楽しめるルートなどというものを候補の一つとしてあげてくれるアプリもある(TCスマホナビ)。
私の場合は、これに加えて、自分でルートを作れる機能が欲しい。現状でも「経由地」という概念を入れてルートを編集することは可能だけど、「この道じゃなくてこっちの道を通って」などという編集を地図上で手軽にできればいいと思う。現状ではGoogleマップがPC上でマウスによってルートを変更する機能を提供しているが、そのようなものをスマホ画面上でできないだろうか。

・車載カーナビへの進出
外付けのスマホやタブレットによるカーナビ使用は、費用や機能の多彩さ、地図更新の迅速化など魅力がいっぱいだ。しかし、仮に今クルマを購入するとした場合、ビルトイン式の車載カーナビでなくあえて外付けのカーナビアプリを使い続けるかというと悩ましい。ビルトイン式にはデザインや使い勝手という大きなインパクトがあるからだ。
私の理想としては、現状のビルトイン式の車載カーナビに通信機能が組み込まれ、中身はお気に入りのカーナビアプリが動くという形だ。すでに通信機能を搭載した車がぽつぽつと登場してきているようなので、カーナビもそのような流れになっていくといいなあ。

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2018-06-30

ピアノレッスンNo.167『夜のストレンジャー』

元は映画音楽(ダイナマイト作戦)でしたが、フランク・シナトラが歌ってヒットした曲です。いつか弾きたかったのですが、先週終了したテレビドラマ「崖っぷちホテル!」の主題曲として使われているのを聴いて、今回とりあげました。

楽譜は、アメリカでフリーで出回っているものをダウンロードしました。(正規な著作権はわかりませんが)

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2018-06-23

ピアノレッスンNo.166『エーゲ海の真珠』

ポールモーリアのヒット曲です。

使用楽譜:「ポピュラー・ピアノ名曲全集(1)」(松山祐士編)(ドレミ楽譜出版)

Digital Piano : KAWAI CA67
Recorder : Olympus LS-20M
Editor : PEGASYS TMPGEnc Vdeo Mastering Works 5

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2018-06-21

『日本書紀』を読む(4)聖帝仁徳と暴君雄略の実像を、『古事記』の表記と原文分析から推定する。

見附市学びの駅ふぁみりあでシリーズ開催されている「古代日本史講座」。
17期の『日本書紀』成立1300年!その謎を解くシリーズ。今回はその第6回「『日本書紀』を読む(4)聖帝仁徳と暴君雄略の実像を、「『古事記』の表記と原文分析から推定する。」と題して、仁徳天皇と雄略天皇実像を探っていく。
※以下「私」と記述している部分は関根先生のことを指しています。

■プロローグ:歴代天皇一覧

前回までで、神々の物語から始まり、神撫天皇、欠史七代、崇神天皇、景行天皇という時代を辿ってきた。天皇の変遷についてYouTubeに分かりやすい動画があったので、復習もかねて見ていただきたい。このビデオは、暗殺されたといったことをはじめとしてわりと客観的に簡潔に天皇の系譜を紹介している。

(33代推古天皇まで視聴)
今の推古天皇までが『古事記』に書かれているところ。今日取り上げる仁徳天皇から推古天皇までが『古事記』下巻にあたる。(舒明天皇の名前だけが少し紹介されて終わる)
一方『日本書紀』は次の舒明天皇から持統天皇までの30年間についても記されている。

■日本神話に取り入れられたもの

【資料1】資料紹介 河合敦『早わかり日本史』(日本実業出版社1997)
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これは少し前に出版されたものだが、『古事記』と『日本書紀』の一般説としての編纂目的が分かりやすくまとめられている。
私がこれに対して付け加えたい点が2点ある。
まず、日本神話は東南アジアの神話を骨格とし、中国、朝鮮、南太平洋、ギリシャ神話などの影響を受けているとしているが、日本の各氏族の祖先伝承的な神話も書かれており、それも加えるべきだ。
次に「大和朝廷の歴史」と記載されているが、『日本書紀』の時代の政権に「大和」ということがを使うのに私は違和感がある。
『続日本紀』を「大和」で検索した結果を下に示す。
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赤い線で示されているところは757年であり、それ以降は「大和」という名称が頻出している。しかし、それまでは一般的な名称として「大和」が使われていなかったのは一目瞭然だ。
もちろん、国名を指す「日本」(にほん)という言葉も、現在では弥生時代にまで遡って用いられることが多く、便宜上それはしかたのないことである。しかし政権という組織を表す言葉に当時はまったく使われていなかった「大和」を使うのは大きな違和感を感じる。
この750年頃から為政者たちの意識が「日本」(ヤマト)から「大和」(ヤマト)に変わっていったというのが私の「大和」観である。
なので、あえて「大和」を使うのならカタカナの「ヤマト」を使う。

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この757年を見ると「壬申年功田」という言葉がたくさん使われている。これは80年も前の壬申の乱の功績に褒賞を与えていることを記している。この時期は過去の見直しや新たな展開を積極的に進めており、その中から『続日本紀』も出てきており、この頃のいろいろな思惑が入ってきている。平城京から平安京に移った時の政治の形がこういうところに出てきているのと同様に、720年に成立した『日本書紀』にはその頃の政治の動向がそのまま反映されているのではないかと考える。

■この時代の『日本書紀』の内容に関する個人的感想

『古事記』下巻の最初に出てくる仁徳天皇と、その5代後に登場する雄略天皇を見ていきたい。『古事記』下巻に登場する天皇の中でかなりエポックになる人物なので取り上げることにする。

その前に、この時代の『日本書紀』をあらためて読み返してみて感じていることをお話したい。
ここに私が常日頃参照している岩波版「日本書紀」上下巻がある。興味のある所に付箋紙を貼っているのだが、見ていただいてわかるように、下巻にはたくさんの付箋紙が張ってあるのに対して上巻には数枚しかない。これは私自身の『日本書紀』に対する興味の度合いだと思ってもらってよい。
上巻で語られる天皇の物語は読んでいてつまらないと感じる。言い方は悪いが虚構性やインチキ臭さがをまず感じてしまうのだ。

仁徳天皇というと一般的には聖帝とされているが実のところはどうなのだろう。『日本書紀』の記述によると弟と皇位を譲り合うのだが、弟が自殺してしまう。それで馬乗りになって呪文を唱えると息を吹き返し話し合った後また死んでゆく、というようなストーリーが描かれ、いがみ合わずに譲り合うことの大切さを説いたと思われる部分がある。その反面、やたらに人を殺したりだまし討ちにしたりする話が出てくる。これは何なんだろう。

天皇家を神聖化したり権威付けしたりする目的で書かれていることは間違いないのだが、本当に天皇家の物語なのかと疑問に思うようなところがたくさんある。
これは、みんなちゃんと読まないであろうことを前提として、本音の部分、伝承の部分、つまりある種歴史的事実がたくさん残存しているのではないかと思える。

したがって、歴史的事実は何かという視点でとらえていくとかなり大変な作業になる。私はここ数年間、720年に至る50年間ほどを古代史研究のメインテーマとしてきたが、この期間だけでも大変である。それを考えると、これらの1000年近くを相手にするのはものすごいエネルギーがいりそうだ。
とはいえ、今シリーズであらためてアプローチしてみると興味ある部分も出てくるので、そのようなところをお伝えできればと思っている。

■「倭の五王」

ウィキペディアの「倭の五王」の項を見ていただきたい。
今日課題にしている仁徳天皇とか雄略天皇などその前後のところは、古墳と言われるものが日本にたくさんできた時代にあたる。前回の講座でお話した4世紀は「空白の4世紀」などと呼ばれ、中国にも朝鮮にも日本に関する資料が見つかっていない時期だが、そのあと「倭の五王」と呼ばれる人たちの記述が中国に見られる。日本から5人の王が中国に朝貢してきたという記録が見つかっている。
それが、応神天皇から今回取り上げる雄略天皇までのことではないかというのが、『日本書紀』と比較して導き出した比定説である。しかし、実際のところ事実はほとんどわかっていない。

次に同じくウィキペディアの「稲荷山古墳出土鉄剣」の項
埼玉県の稲荷山古墳から出土されたもので、鉄拳に金で象嵌されていてかなり長い文章が確認される。その中に「獲加多支鹵大王」という記述があり、ワカタケル大王つまり雄略天皇のことであると解釈するのが一般的である。その雄略天皇は「倭の五王」の中の最後の「武」であるということが定説になりつつある。

【資料2】資料紹介 原遥平『人物で読み解く【かんぺき】日本史』(こう書房2000)
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今日の仁徳天皇、雄略天皇の時代はそんな背景の時代である。

■仁徳天皇

「仁徳」というのは後でつけられた中国風の名前で、基本的には「おほさざき」と呼ばれていた。そしてこれを漢字でどう表記するかで『古事記』と『日本書紀』で違いがある。
『古事記』では「大雀」、『日本書紀』では「大鷦鷯」であるが、どちらも「おほさざき」と呼ぶ。
このことについては以前から興味があり調べていて、この講座でも過去に取り上げたことがある。重複する部分もあるが改めて紹介したい。

【資料3】Watch! 古事記下巻が示唆する編纂者像『大雀表記と下巻の意味は』
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この資料の真ん中に載せてあるのが真福寺本古事記の「大雀」(おほさざき)表記の部分、右側が本居宣長が過去のものを参考にしつつ自分が解釈した「大雀」の部分。そして左側に載せたのが江戸時代の寛永版古事記の写本である。『古事記』なのに日本書紀式の表記となっている。(改竄してある)

改めて真ん中の真福寺本古事記を見ていただきたい。「古事記下巻」というタイトルの後に「大雀」と続いている。
そもそも「雀」という字の成り立ちを調べるために漢字海で調べてみると「説文」として「人里近くにいる小鳥。『小』(ちいさい)と『隹』(とり)から構成されている。」となっている。
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つまり小さい鳥というのが基本的な意味である。このことについては漢字についてかなりこだわりがあった時代の『古事記』『日本書紀』の作者は分かっていたはずだ。それにもかかわらず「大きな小鳥」というおかしな表記を天皇につけるというのはどうしてだろう。

さらに真福寺本の下巻冒頭には「仁徳」と注記してある箇所があり、それは「大集」と表記してある。漢字海で今度は「集」を調べてみると、なりたちが「多くの鳥が木の上にいるさま」となっている。
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この下巻冒頭部分には引き続き「太雀」という表記も現れる。
3種類の書き方で仁徳を示し、人物像のようなものを訴えているととらえられる。

ここで右側の「宣長本古事記の序」を見ていただきたい。「臣安麻呂これを献上する」と書いてある。「安麻呂」とはもちろん「太安麻呂」のことである。「太安万侶」は「太」という表記になっているが、安麻呂の氏族はもともと「多氏」と呼ばれていたが、安麻呂は自分で「太」という表記に変えている。ということは「太」という字は当時あまり悪い意味ではなかったのかもしれないと想像する。

ということは、この真福寺本で見られる3種類の表記は「小さい小鳥がいっぱい鳥を集めているうちに太くなった」というような肯定的な意味を表しているのかもしれない。
真福寺本古事記はこのように興味深い書き方をしているが、『日本書紀』にはこんなばかにしたような書き方は失礼だということで「大鷦鷯」と改められたのではないだろうか。あるいは『日本書紀』に「大鷦鷯」と書かれていたのを見た太安麻呂が、『古事記』にはあえて揶揄した表記にしたのかもしれない。それは『日本書紀』の大部分は『古事記』編纂以前にできていた可能性が高いからである。

それをさらに1000年ほど経った江戸時代初期に、やはり「大雀」表記はまずいということで寛永本古事記では『日本書紀』にならった表記に書き換えられたのではないだろうか。つまり、天皇の名前に「大きな小鳥」はまずいのでは、と感じた人がいたということの証拠となる。そしてそういうような評価を受ける天皇が仁徳天皇ではなかったではないか、というのが歴史的事実ではないかと思う。

このようなことを踏まえて改めて『日本書紀』を読んでみていただきたいが、岩波版の他には石ノ森章太郎の『日本の歴史』シリーズはとてもお勧めである。歴史と物語をうまく取り込みながらきちんと解釈して内容をまとめている。

■雄略天皇

仁徳天皇から5代後に即位したのが雄略天皇。もともとの名が「大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)」といい、「倭の五王」のところで話したように稲荷山古墳から見つかった金錯銘鉄剣銘などを証とし、「武」とされる人物に比定されている。これらはほぼ事実とみて間違いない。

暴力的な行動が多く書かれていることより大悪天皇と呼ばれている反面、有徳天皇などと真反対に書かれる場合もある。これらのことは、この天皇になった時代にかなり強大な国になったと言われている一因であろう。(私はどこまで強大だったのか疑問に感じるが。)

【資料4】資料紹介 宇治谷孟『日本書紀(上)』(講談社学術文庫1988)
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この資料は、私が現代語訳としてとても活用している宇治谷孟さんの『日本書紀』から雄略天皇の記述を抜粋したもの。天皇に即位したときのことと緒妃とのかかわりを書いてある。

この記述の中に興味深い内容があり、最近注目している。それは「物部連目を大連とした」というくだりである。

私のメインテーマの石上麻呂が亡くなった717年3月3日の『続日本紀』の記述に「大臣泊瀬朝倉朝庭大連物部目之後」というものがある。
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大臣(石上麻呂)は「泊瀬朝倉朝庭」(雄略天皇の営んだ宮殿)の「大連物部目」(おおむらじものべのもく)の祖先である、と書かれている。
そこで「大連物部目」で日本書紀や古事記を検索するがヒットしない。そういう場合は字句を絞り込んで検索してみるとよい。「大連」や「物部連」などで検索すると『日本書紀』の雄略天皇に以下の個所がヒットした。
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「物部連目爲大連。」つまり、「物部連目」(もののべむらじもく)が雄略天皇によって「大連」(おおむらじ)となった、という記述である。

この物部目についてのエピソードを資料に紹介しているが、一晩しか夜を共にしなかった采女から生まれた女の子を自分の子供と認めなかった天皇に対して、「一晩に何度呼ばれましたか」と質問し、天皇が「七回呼んだ」と答えたことから女の子を皇女と認めさせた、というような話が書いてある。

■エピローグ:歴史が残っていくということ

この1300年前の一見どうでもいいような子供認知のエピソードを現代のわれわれが目にしているということについて、歴史が残ることについての偶然性について感じるところがある。

私の家では紙ごみをリサイクル業者に持ち込んで処分してもらうのだが、ある時、積み重なったごみの中に時宗の年報や専門書などが山積みになっているのを発見した。業者に交渉して一部を廃棄せずに持ち帰り保存することができたが、こんな偶然から歴史が忘れ去られたり引き継がれたりする。
『日本書紀』や『古事記』なども、何巻かの巻物として当初は存在していたはずだが、そうやって拾われたり捨てられたりしてきたのだろう。そう考えると、1300年前のものが写本にしろ何冊も現代に引き継がれているということは素晴らしいことだと思う。

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2018-06-17

都響プロムナードコンサートNo.378

6月17日日曜日。今季度2回目の都響プロムナードコンサート。

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サントリーホールへはいつも地下鉄南北線六本木一丁目駅を利用するのだけど、今日は三田線を内幸町まで行き、地上に出て都バスでアークヒルズに向かった。「都01」という新橋~六本木~渋谷を結ぶ路線だ。本数も多いので便利だし、サントリーホールの目の前まで運んでくれるのがうれしい。

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そのせいもあって少し早めに到着。


13:20の開場時刻になるとカラヤン広場にオルガンの音が響き渡る。サントリーホール玄関上に設置されているパイプオルゴールが開場を知らせる音楽を奏でている。

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今日の曲目はカリンニコフという初めて耳にする作曲家の交響曲。

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指揮:オレグ・カエターニ
ピアノ:藤田真央
管弦楽:東京都交響楽団
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チャイコフスキー:歌劇『エフゲニー・オネーギン』より「ポロネーズ」
チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 op.23
(アンコール ショパン:マズルカ Op.63-3)
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カリンニコフ:交響曲第1番 ト短調
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カリンニコフの交響曲は、シンプルさとロシア的な響きが組み合った、とても聴きやすい曲という印象。
ピアノの藤田真央(スケートの真央ちゃんは女の子だけど、こちらの真央ちゃんは男の子)は若干二十歳のかわいい男の子という容姿だけど、表情豊かで柔らかい演奏はとても聴きやすく好きな演奏だ。
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プログラム誌の「月刊都響」。今年度から表紙が楽器の写真になった。先月はティンパニーだったけど、今月はホルン。なかなかかっこいい。

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帰りは日比谷線に乗るためにカラヤン広場から階段を上り、ホール裏手方面へ出た。

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すると正面にオークラホテルが現れる。ホテルの裏手に回ると神谷町駅だ。

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神谷町駅はずいぶん久しぶり。ホームも新しくなっており、広くなっていた。
日比谷線に乗り込み、銀座まで。目的地は有楽町交通会館前のマルシェ。

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ただ単にここのクルマ屋台でコーヒーを飲みたかったからだ。

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屋台とはいえ侮れない。これはマンデリン豆のストレートコーヒー。エスプレッソで抽出している感じで薫り高い。

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目の前を東海道新幹線が頻繁に通り抜けていく。落ち着く。

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2018-06-16

ピアノレッスンNo.165『ミスター・ロンリー』

懐かしい人にはとても懐かしい、ジェットストリームのオープニングテーマ曲「ミスター・ロンリー」です。(ショートバージョン)

使用楽譜:「JET STREAM ~ピアノ・エディション・セレクト60~」(ドレミ楽譜出版)

Digital Piano : KAWAI CA67
Recorder : Olympus LS-20M
Editor : PEGASYS TMPGEnc Vdeo Mastering Works 5

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